人類最後の切り札か、ベーシックインカム制度


共産主義と資本主義。人類の生み出した2つの経済システムは不完全なようで、いずれも憎悪生産システムの様相を帯びている。結局、人間のつくるシステムは人間の不完全さの具現に過ぎないのだろうか。人々の憎悪を和らげ、不寛容をなだめ、人をツールとしてではなくライフとして見ることのできる社会システムは存在しないのだろうか。

これは、現代のおとぎ話なのかもしれない──人は生まれただけで、何の努力をしなくても、社会から無条件に一定の「お金」という「権利」が与えられ、その結果、働かざる者から命を取り上げていた社会よりもずっと幸福な社会になるのだという。このおとぎ話の舞台に設定されているのが「ベーシックインカム制度」である。

人権は、生まれただけで、何の努力をしなくても、社会から無条件に与えられる。しかし、生きていくためのお金は(一部の特権的な仕組みを除いては)労働の見返りとしてしか手に入れられない。労働を奪われたり、労働を拒否したりする人は「人権がありながら」死を受容するか、ホームレスになるかである。

生活保護のような社会保障制度は、たいていの国でうまく機能していない。そこには「審査」という高い「壁」がそびえ、さらに「努力義務」という「鞭」が据え置かれている。社会保障制度を受けようとする人は、自分が罪人であるかのような卑屈な・恥ずかしい気持ちを抱かされる。看守と囚人の関係性を、役人と市民の間に生み出すのが生活保護制度なのだ。

ベーシックインカム制度に関する書籍を僕は3冊読んだが、そのなかでもお勧めしたいのが『隷属なき道』(ルトガー・ブレグマン著、野中香方子訳)である。書中で僕が特に惹かれたエピソードに次のようなものがある。

1968年、ニューヨーク。ゴミ収集人が賃上げを要求し、市長が拒んだ。ゴミ収集人はストライキに入り、市はたちまちゴミの山に埋もれていった。市民はすぐに気づいた。社会で真に重要な仕事をしているのが誰なのかを。その価値ある労働には非常な低賃金による見返りしかないことを。抗戦を試みた市長はわずか9日で白旗を上げ、賃上げを認めた。

資本主義は、社会に必要がどうかも怪しい銀行家と、社会に絶対に必要なゴミ収集人に著しい格差を与える。この格差をほんの少し是正するのにストライキが必要だったのは、万人にとって不幸なことだった。もしもベーシックインカム制度があったら、このストライキは起こらなかったかもしれない。なぜか。

ベーシックインカムによる手取りが賃上げされた金額を上回るからである。それと、ベーシックインカムの財源が、主には富裕層の「不労所得」をターゲットにするからである。つまりベーシックインカムとは、必要がどうかも怪しい銀行家は取り分を減らされ、絶対に必要なゴミ収集人にお金を流す仕組みでもあるのだ。格差が狭まれば当然不平は起こりにくく、ストライキのような強引な手法は採られなかっただろう。

ベーシックインカム制度で問題となるのは財源である。まずどこからお金を持ってくるべきかを考えたい。働かざる者食うべからず、と言うけれど、実際この社会には、働かなくても食っていけるどころか寝ているだけでもお金が自動的に流れ込んでくる秘境がある。いわゆる「不労所得」である。

お金を血液として、社会を体だとして考えてみる。体の隅々にまで血液が行き渡らないと、そこは壊死する。一箇所に不必要なほどの血液だまりがあるのなら、ポンプを導入して体にあまねく血液を流すのが、結局は体全体を助けることにつながる。このポンプの役割を果たすのがベーシックインカム制度で、ポンプの導入箇所が不労所得というわけだ。すなわち、不動産・知的財産・金融資産などには大きく課税することになる。

次に、ベーシックインカム制度によって不要になる現状の制度を廃止し、そこに当てられていた財源を移行する。役所に生活保護という部署はなくなる。ベーシックインカム制度は「自動的に」全国民にお金を受け渡す制度なので、審査や調査などのコストもかからない。職員は不要で、分配はAIで肩代わりできる。年金制度も廃止となる。記録に全てを負っている危うい年金と異なり、ベーシックインカムは消えてなくなることはない。失業保険も不要となる。自己都合か会社都合かといった不毛な争いもここに消える。子ども手当も不要だ。ベーシックインカムは子供にも支給されるからである。

ベーシックインカムによって廃止してはならない制度もある。その一つが障害者支援制度だ。障害者等への介助費用は別途かかるわけなので、障害者はベーシックインカムと障害者支援を同時に受け取ることになる。

次は法人税!という声が聞こえてきそうだが、過去の記録を調べてみて分かったのは、1990年代から現在まで法人税は変動しているが税率と税収は単純に相関していないのである。法人税増税によって歳入を増やすというのは案外難しいのかもしれない。むしろ、富裕税の導入の方が現実的かもしれない。

『2016年 グローバル・ウェルス・レポート』によると100万ドル以上の資産のある日本人は約282万6,000人ということである。この狭い国土で、生活保護を受け取れなくて自殺に追い込まれる人がいるすぐ傍に、このような人たちが暮らしているのだ。アメリカではさすがにこのような状況を恥じて、一部の富裕層が「自分たちから富裕税を取ってください」という署名が行われた※1というが、日本の富裕層はどう思っているのだろうか。

財源が確保できたら、それを全国民に分配することになるが、山分けにするのではない。ベーシックインカムはその名の通りベーシックな額のみを一律に支給する。生活費に充てることが前提なので、市場経済の状況によって額は変動する。2019年現在の基準から考えれば、月額10万円がめどになると僕は考えている。10万円ではほとんどの人は働くのを辞めず、社会は混乱しないだろうし、どうしてもそこで働きたくない事情のある人は辞めて「退避」することができる。

そして、ベーシックインカムで得たお金の使い途は、完全に個人の自由だ。それを監視する機関はないし、政府に報告する義務もない。ベーシックインカムはお情けや施しや埋め合わせではなく「権利」なのである。それゆえベーシックインカムは富裕層にも支給される。支給される人の属性は全く考慮されないわけだ。ベーシックインカムは差し押さえの対象にできず、所得税の対象にもならない。「権利」を奪うことはできないからだ。

このおとぎ話は、ただお金の流れを正すだけにとどまらない。そのポテンシャルには、まさにおとぎ話の魔法のような効果があると見込まれる。現在まで世界各地ですでに実験的に行われた、ベーシックインカムに模した「フリーマネー」の効用には次のようなものがあった。

・犯罪の抑止効果
再犯率の低下
・小児死亡率の低下
・学業成績の向上
・IQの向上
・男女の機会均等の上昇
・アルコール、タバコの消費量の減少

アルコール、タバコの消費量の減少は興味深い。人は貧困にあるほど、これらのものに依存しやすいということだ。これは、従来の「依存的だから貧困に陥る」という定説を覆す。私たちはこうした間違いを犯しやすい。犯罪には厳罰を、学力向上のためには試験改革を、男女平等のためには女性がもっと努力しろ、といった風に。ベーシックインカム制度は人を平等に扱う。平等が促進されれば人々の物の見方や振る舞いが変わる。上記のような効果は、むしろ当然の帰結なのだ。それなら、なぜベーシックインカム制度は世界のどこ国にもいまだ導入されていないのか。

おそらくベーシックインカム制度導入の最大の障壁は財源ではない。それは一言でいえば、パターナリズムである。パターナリズムとは「お前のことはおれのほうが分かっている。だからだまっておれの言うことに従え」という父権的な振る舞いを指す。ちなみに、ウィキペディアによればベーシックインカム制度に全面的に反対している日本の政党は自民党だけである※2自民党パターナリズム神道(神社)と天皇制を中心に据える「信仰」由来の頑迷なものだ。彼らは「施し方はおれたちが分かっている。行儀よく待っていろ」と言いたいのだろう。対して、ベーシックインカムの唱導者は「お金の使い途はお金のない人のほうが分かっている」と当たり前のことを説く。

「フリーマネー」には犯罪抑止の効果がある。一般に、なぜ犯罪が起きるのか、を考えるときに、私たちは「犯罪を犯す個人が悪い」と一刀両断にし、話を終わらせていないだろうか。犯罪者の事情を知っても「そんな環境はありふれている。甘えるな」とパターナリスティックに言い放ちがちではないだろうか。それは確かに正しい面もあるが、それでは犯罪を減らすことはできない。「あいつが悪い、死ねばいい」というのは実効性のない言論である。犯罪を忌まわしいと思うのなら、どうしたら犯罪が起こりにくい社会になるのかを考えるべきだ。

貧困と犯罪の関連性は疑うところがない。貧困は社会への復讐心を燃やし続ける燃料である。ベーシックインカムはその炎を最小化できるかもしれない。少年の貧困は、学力の遅滞につながりやすく、反社会勢力の標的になる。女性の貧困は、社会が女性の就職を不利に扱うせいで、性風俗産業の標的になる。ベーシックインカムがあれば、彼らを危険な場所から逃がれさすことができるかもしれない。それに、犯罪の少ない社会では、裕福な人も今よりも安心して過ごせるはずではないだろうか。

貧すれば鈍す、という言葉がある。転じれば、食うに困らなくなれば頭が冴える、ということだ。これは、古代ギリシャなどの貴族階級から人類の偉大な哲学や科学が生み出された事実からも裏づけられる。ベーシックインカムは、現代社会を生きる人々の精神に余裕をもたせ、イノベーションを促すかもしれない。経済成長は鈍化するかもしれないが、鈍化した方が地球のためである。地球を掘り返し、資源を燃やし続ける現代を旧時代の遺物へと追いやることさえ、ベーシックインカム制度は可能にするかもしれない。

ベーシックインカム制度はおとぎ話に聞こえるが、歴史上の革命的な出来事は、前時代にはすべておとぎ話に聞こえたのだ。身近な問題や社会問題が起こるたびに、僕はベーシックインカム制度が施行されている空想の世界との対比をする。少なくとも、現在が地獄に見える程度にはベーシックインカム制度は魅力的である。

 

※1 ニューズウィーク日本版 https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/06/post-12388.php (2019年11月23日閲覧)
※2 ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/ベーシックインカム#日本における動向 (2019年11月23日閲覧)

赤十字ポスターは環境型セクハラか 〜宇崎ちゃんとラムちゃんとの比較を通して考えてみる

 

日本赤十字社献血ポスターのイラストがTwitterで議論になっている。

これは『宇崎ちゃんは遊びたい』という漫画のキャラクターを献血ポスターに使用したもので、一見して明らかに胸の大きさを強調した描かれ方がされている。ちなみに強調された胸はその全体が服で覆われていて、肌の露出はない。

妻にこの問題を知らされ(見せられ)、僕は初めて『宇崎ちゃん』を知ったのだが、印象としては「またこの手のエロか。しかもこれで献血を促すって、日本は病んでるな」というものだ。

僕はオタク界に暗く、美少女キャラや萌えキャラなどの二次元表現の女性にまるで興味がない。こうして書いていても、本当にそんな単語だったかな、とGoogle検索をかける始末である。Twitterではこうした少女キャラを利用した漫画やゲームの広告が、頻繁にタイムラインに流れるのでミュートするのに忙しい。僕の宇崎ちゃんイラストの第一印象には、これら似た系統のタッチに頻繁に見られる露骨なエロによる刷り込みが影響している。

そんな僕が、くだんのポスターが環境型セクハラだという意見にうなずくのはもっともなのだが、ちょっと引っかかった。じゃあ、献血に耳目を集めるためにどのような女性キャラだったら問題ないのか。最初に思いついたのが『うる星やつら』の『ラム』ちゃんである。

ラムちゃんなら問題なかったよね」と妻に言うと「まあそうでしょ」と返ってきた。そこで「でもラムちゃん、結構エロいかも。検索してみ?」と言った。スマホを見つめて妻は「うーん」と唸った「改めて見るとラムちゃん、やばいかも」。

ラムちゃんの普段着はビキニである。肌露出の多寡をエロの物差しにすれば、宇崎ちゃんよりもラムちゃんの方が圧倒的にエロなのだ。ラムちゃんには胸の谷間まで描かれているっちゃ。一方で、宇崎ちゃんの胸は服ですっかり覆われてるッス。

自分はなぜラムちゃんをエロだと思わないのか、を突き詰めると、昔漫画を読んでいてラムちゃんの人となりや彼女の強さを知っているからではないかと思い至った。『うる星やつら』に多少のお色気はあっても、明らかに成人漫画ではない。宇崎ちゃんイラストに対して不快感を覚えるのは、作中でどう演じられているかを知らないからではないか。そう考えて、YouTubeでアップされていた作品をびくびくしながら一話、読んでみた。


全然、エロじゃなかった。


一言で説明すれば、これは青春ラブコメである。この作品に馴染んでいた人からすれば、宇崎ちゃんを環境型セクハラ呼ばわりされたらそれは違和感があるだろう。作中で(多少のあざとさはあるにしても)宇崎ちゃんの胸の大きさは外見上の個性でしかなく、相手役の「先輩」は彼女の容姿にまるで無関心なのである。

それで思い出したのだが、僕には大学時代、宇崎ちゃんと同程度と言えるほど胸の大きい女友達がいた。宇崎ちゃんのような容姿の人は架空ではない。例えば、宇崎ちゃんが現実の誰かをモデルとしているとしたらどうだろう。宇崎ちゃんの容姿のみを指して環境型セクハラと糾弾することは危険なのではないか。

僕らはたいてい、映画や小説や漫画の登場人物を「実在している」とみなして、その世界観を楽しむ。『宇崎ちゃんは遊びたい』のファンにとって宇崎ちゃんは、実在に準ずる存在のはずで、その彼女を貶められれば、当然反論したくもなるだろう。彼らにしてみれば、反駁するのは宇崎ちゃんを守る英雄的行為なのだ。

ただ、日本赤十字社は「宇崎ちゃんのどのカットを使用するか」を間違えたように思う。日本赤十字の採用したのは単行本の表紙の絵だが、これは作中の宇崎ちゃんの人となりを代表するカットとは言えない。宇崎ちゃんファン以外の関心を引くために、あえて挑発的なものを選んだのではないか。『宇崎ちゃんは遊びたい』はセクハラ漫画ではないが、日本赤十字社の上層部にセクハラ体質があるのではないかとは疑う。

それと、なぜ単行本にすでに使用された流用イラストなのか。献血にふさわしく新たに描かれるべきだった(看護師の格好をさせろという意味ではない)。給仕の服装であるために、男性目線(サーヴするのは女性の役割という暗喩)で描かれた感が余計に出てしまっている。宇崎ちゃんに敬意を払うのなら、彼女を実在の女性として捉え「どのような服装で献血ルームの前に立ってもらいたいか」を考えるべきだ。新規イラストを発注する経費を惜しんだのだろうが、この雑な進め方からし日本赤十字社の上層部にはパワハラ体質があるのではないかと、さらに疑ってしまう。(これは、ライターとして企業広告のための取材を8年ほどした経験からのクライアント洞察である)

調べてみたところ、数年前に松戸市献血ルームでやはり美少女キャラがポスターに使用されている。こちらは松戸市の公式キャラクター松宮アヤが看護師のコスプレをしているのだが、驚いた。これはこれで宇崎ちゃんの比ではない問題がある。その最たるものは設定年齢で、宇崎ちゃんが20歳で成人なのに対し、松宮アヤは15歳。未成年なのである。にも関わらず、ポスターでは女性として特徴的な体のラインが露骨にくっきりと描かれている。環境型セクハラどころか、チャイルド・セクシャル・アビューズに相当するとされてもおかしくない。また、松宮アヤは単なる市のキャラクターであって、作品によって魂を与えられた存在でもない。

この松戸市での成功体験(?)を踏まえて今回の宇崎ちゃんポスターが制作されたなら、一連の文脈から、宇崎ちゃんポスターには日本赤十字社の上層部による同質の意図があった、と見るのが適当だろう。すなわち、宇崎ちゃん自体はエロでないとしても、そこにエロの要素を読み取り、大衆迎合のために利用しようとした日本赤十字社の意図はあると、僕は考える。

まとめるとこうなる。

宇崎ちゃん:無罪
日本赤十字社の運用:著しく不適切

ところで、Twitter上の「環境型セクハラ」派の意見に、「血が集まればいいというものじゃない」というものがあった。僕は作品の内容を知らずイラストに嫌悪感を抱いていた時から「より多くの血が集まるのなら、この程度は許容するべきか」とも考えていた。もし自分の大切な人や自分自身が事故に遭って献血を待っている、という場面を想像すれば、これを疑う余地はない。

死に瀕しているときに、病院でこんな風に医師に告げられる。
「残念ながら、血液が足りません。献血を集めるには、人気の漫画キャラを使って宣伝する方法があるのですが、そのキャラは女性で胸がとても大きい、という設定なのです。このキャラを使って献血を募ると、環境型セクハラになる恐れがあります」
「は?」
「つまり、女性の権利を損ねる恐れが…」
「それなら、胸を衣服で隠して募ってください」
「胸はすでに衣服で隠れています」
「は?」

血を集めるために、犯罪予備軍を焚きつけるようなことがあってはならない。しかし、どう穿った見方をしても、宇崎ちゃんポスターにそこまでの影響力はないだろう。

全体的に宇崎ちゃんを擁護する、自分ながら意外な考察の結果となった。最後に、宇崎ちゃんファンの肩を持つふりをして「アンチ・環境型セクハラ」派とでもいうべき立場で、ただ攻撃を楽しむだけのサディスティックな層が日本にはある、とは指摘しておきたい。これについては、いずれ別の記事でまとめたい。

 

 

追記:宇崎ちゃんポスターの描かれ方の問題点に「乳袋」なるエロの記号があると後で知った。グラフィックデザイナーでありながら、この乳袋の不自然さにはまるで注意が向かなかった。自分の感性に合わないものは一瞬で分かり、それを隅々まで見るようなことはしないからだ。一般人の多くもこれがエロの記号だと言われてもピンとこないのではないか。記号というよりむしろそれは、オタク界の「暗号」のように思える。

 

 

参照:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191016-00000009-tospoweb-ent

https://www.excite.co.jp/news/article/Otapol_201704_4_40/

 

タバコがなぜ悪なのかを科学的な視点をふまえて絵本化してみた

 

アレルギー患者とは、人類のなかでも優れて敏感なセンサーをもつ人たちのことだと思う。彼らのおかげで、環境に危険が差し掛かってきたことを周囲はいち早く気づくことができるのである。ダーウィニズムの観点からすれば、センサーの鈍い豪傑ぞろいの部族は、敏感なセンサーをもつ病弱者を抱える部族よりも滅びやすいはずである。そういう意味からも、人の多様性のある国こそが真にタフなのだ、と言うことができる。

喫煙を制限する法制化が進むのは、アレルギー患者とその潜在者たちの一般よりも敏感なセンサーが、タバコの煙に対して異常を示すアラートを鳴らしているからではないかと思う時がある。都市部では特に、空気を浄化する樹木や土の地面が激減しており、粉塵や煤煙、細菌やウィルスがコンクリートアスファルトの間で絶えずかき回されている。人工林の放置による花粉の飛散は春の風景をすっかり変えてしまった。現代に詠まれる俳句でマスクとくれば、それは春の季語に違いない。さらに、空気や農作物には「ただちに健康には害のない程度の」放射性物質が含まれるようになり、最近では、水や食塩にもマイクロプラスティックが混ざっていることが明らかになった。環境の汚染が人体の許容量を超えようとしているようなこの時代に、街角や飲食店や職場で、追い討ちのようにタバコの悪臭が漂ってくる。このことへの多くの人々の身体的な反発が、タバコの規制を後押ししていると僕は考える。

タバコの煙が悪臭であることは、その主成分がアンモニアホルムアルデヒドであることから明確である。臭いが悪いだけでなく、タバコが有毒らしいということは、実は喫煙者も経験的にうすうす知っているはずだ。喫煙行為は、手始めにおいてかなり無理してその「不味さ」に慣れなければならない。不味さを我慢して吸い続けるうちに中毒になり、中毒ゆえに禁断症状が出るようになり、それを和らげるために喫煙するという循環が生まれる。よく言われるように、タバコはストレス解消に実質的に役立ってはいない。なぜなら、喫煙習慣がストレス源そのものだからだ。そもそも、喫煙者がなぜこのような自分自身に対して不正直な行為に取り組んだのかと言えば、それはひとえに見栄や格好つけのためである。この点において、映画産業の果たした役割は非常に大きいし、残念ながら今もなお大きい。

見栄や格好つけの誘惑の罠に、子供たちが将来陥らないようにするにはどうしたらいいだろう、と僕は考えた。そのためには、タバコを趣味嗜好の話ではなく、科学の話として語ればいいのではないか。タバコがなぜ有毒なのか、なぜ他人を傷つける可能性があるのかを科学的に理解できれば、タバコとは距離を置くようになるのではないか。子供はたいていの大人よりもずっと賢い。そのうえ、子供はすぐに大人になる。いま5歳の子がタバコの害を理解して、タバコを吸わない成人になるのにたった13年である。13年で世界が変われば素晴らしい。新しい世代の喫煙比率を下げることが、世の禁煙化を推し進めるための最善の策になるのは間違いない。

道路に、視覚障害者のためのブロックが敷かれていたり、車椅子のためのスロープがあるのは、弱者に配慮する良識に基づいている。弱者に配慮することは、自分が弱者になったときの世界を担保することにもつながる。対して多くの喫煙行為には、アレルギーだったり体質が弱かったり疾患のある者に、不利益を「我慢しろ」というパワハラめいた考えが潜んでいる。しかし、我慢をしなければならないのはどちらなのだろう。我慢できない、というのがタバコの異常さである。そしてひとたび誰かが喫煙すれば、平均以下の室内であればすみずみまで、屋外であれば風下約30メートルまでその害は拡散される。1人でも非常に広範囲を汚染しうるのがタバコの特徴である。そして、その毒が他人の遺伝子にどう作用するのかは絵本(かがくせんたい・ぴーこさん)に描いた通りである。

私たちは空気を共有している。空気を体内に取り入れて、内臓や血液を動かしている。空気は栄養価のない、しかし必須な「食べ物」であるとも言える。空気を汚さないように考えるのは、飲料水を汚さないようにするのと同じく自然なことだ。未来には、その価値観がすっかり行き渡っていると期待したい。僕は、タバコのない未来から現代を見つめることが必要だと考え、物語の締めくくりとした。未来から現代を見つめたとき、現代の事情を鑑みて、悪徳に同情的になる必要はない。そういう感情移入は、退行にしかならない。常に未来の倫理観で現代を照らせばいい(これは、過去と現在の関係についても同じことが言える。過去の倫理観にシンクロすることは現在を退行させる働きがある)。

世界はどう変わっていくべきなのか。私たちはどう変わるべきなのか。鍵を握っているのはいつも子供たちである。

 

 

☆絵本はApple Booksでも無料公開しています。

https://books.apple.com/us/book/id1479680397

 

絵本の制作にあたっては『2100年の科学ライフ』(ミチオ・カク著、斎藤隆央訳)から大きな教示を得ました。なお、遺伝子の働きを擬人化するにあたって科学的に不正確な箇所がありましたら、それは僕の理解力不足や表現力不足に起因するものであり、参考文献の瑕疵ではありません。

この作品を印刷・出版・各種媒体を用いた流布・記事化等をしていただける、個人・団体・企業・教育機関・メディア様を募集しています。プロフィール内にある連絡先にメールしてください。なお、僕の職業はフリーランスのグラフィックデザイナーであり、科学や医療に関する専門家ではありません。

 

※2022年4月1日より成年年齢は20歳から18歳に変わる。

僕がネットとリアルの人格の使い分けを危険だと考える理由


インターネットの書き込みに罵詈雑言を見ない日はない。だから街に出ると変な気分になる。誰もそんな口調で喋ってはいないのだ。先日、高尾山に行ったとき、頂上で歩きタバコをしながら韓国人の民度についてとくとくと友人に語っていた男性がいたが、逆にネット文体で喋っている人を現実に見ると珍しいものを見た気になる。

これには2つの理由が推測される。1つは、ネットに頻繁に書き込む人は外出頻度が少ない、ということ。もう1つは、外出は人並みにするがネットとは別の人格を演じている、ということである。

このうち、人々はネットとリアルの人格を使い分けているかもしれない説について考える。これはいわば、意識的に解離性同一性障害の状態をつくり出すということだ。Wikipediaによれば、解離性同一性障害の問題は『複数の人格を持つということではなく、ひとつの人格すら持てない』※1 ことだという。複数の人格はそれぞれ、その人の全体ではなく部分でしかないので、様々な気質や感情がひとつの人格に統合された健常人よりも社会との適合が難しくなる、という主張のようだ。

ネットとリアルの人格を使い分けることで、その人の「部分」である人格が強調され、ネットに罵詈雑言が書き込まれる、と考えると腑に落ちる。これは一見、ただの鬱憤晴らしのようにも見える。しかし、自分の一面だけを、文章を記すことで強化するのは、別の面を圧殺してしまうことにならないだろうか。それが進行して「部分」がついに自分のほぼ全人格となってしまったとき、その人は、外国人に大人気の観光スポット・高尾山の山頂で韓国人の民度を語るような事態に陥ってしまうのではないか。

僕がネットで本名を晒して書いているのは、自分の「部分」に好ましくない気質を認めるからである。自分も含めて、人は本来多面的な存在であると考える。ブラハラ(ハラスメントはエロかサドかの考察と『ハラスメンタリスト』提案 )のハラスメントたる所以は、人に多面性を認めない狭量さにもある。多面的であるためには、自分の「部分」を変に強調したりむやみに解放したりしない必要がある。そして、多面的なのは人の魅力だ。僕はサザンオールスターズが好きだが、このバンドの魅力はまさに雑多な言葉や音を包括しているところにあると思っている。排除や隠蔽によって一面を際立たせるのではなく、聖も俗も全部認めて芸術的に晒け出すことのできるミュージシャンは稀少である。

罵詈雑言の言論は、その刺々しい衣を剥ぐと、中身が空っぽということがままある。自分で校閲をかけて、毒を抜き、それでもその主張に意味が残るのかを試してみるべきだ。僕はさらに、自分の文章からできるだけ主観的な形容詞を取り除くようにしている。形容詞に頼る書き方は危険だ。それは何か書いた気にさせるけれど、実は何も言っていないことが多い。

子供の頃、テレビ番組で流される録音された「笑い声」の演出が嫌いだった。だから僕は記号「w」も使わない。自作自演で笑いをマシマシ※2 にしているように見えるからだ。それは面白さの本質ではない。それと、自分によくあることだが、気づけば自分ひとりだけが笑っている、というリスクもある。普通に喋っているつもりなのに、いきなり相手が爆笑することもあるから、僕は笑いの感覚に長けたほうではないのだろう。そのように考え、僕は「w」を封印する。本当は使いたいんだけどw


※1 https://ja.wikipedia.org/wiki/解離性同一性障害Wikipedia参照)
※2 ラーメン用語で具材を大盛りにすること。

詩を書いてしまうほどNHKのことが嫌い


命はなぜ大切か、という問いにあなたはどう答えるだろう。かけがえがない、という人もいるだろう。美しいから、という人もいるだろうし、そのような刷り込みをしないと戦争になるから、という人もいるかもしれない。大切ではない、という人もいるだろう。さて、この問いに「命だから」という答えがあったとする。これは、問いに答えていない答え方だ。だから、その命はなぜ大切なのかが、質問者は知りたいのだから。

NHKの受信料制度の意義を問われたとき「公共放送だから」と答える政治家や官僚が多い。このとき僕は、上記と同じ堂々巡りに出会った気持ちになる。公共放送だから、というのは説明になっていない。なぜなら質問者は、公共放送はなぜ受信料を視聴しない者からも一律に徴収するのか、と訊いているからだ。NHK受信料をめぐる裁判でも、これと同じようなことが起こっている。NHKの不当性を訴える人に対し、裁判官は「放送法だから」として斥けるのである。NHKに関しては、不文律やタブーでもあるかのように、権力ははぐらかしで逃げる。彼らの正義は凍結され、その思考は麻痺している。

放送とは、機械による情報の発信と受信だ。単純だった機械が時代とともに進化し、多様になり、もはや原型をとどめたまま機能する機械などどこにもないのに、放送法が変わらないのはなぜだろう。新しい仕組みの機械が誕生するたびに、放送法は見直されるべきではないか。結局、化石のような放送法を保護し続けるのは、拡大解釈で強制徴収できる利点があるためだろう。しかし、この利点はNHKに限られるもののはずだ。政府や司法が、こぞってNHKを保護しようとするのはなぜか。国会議員と裁判官の胸のバッジをよくよく見ると「NHK」と彫られていたというオチだろうか。

ちなみに僕は、NHKの受信料を払ったことがない。本当にテレビがないときもあったが、テレビがあっても「受信機を設置していない」と言う。彼らと同じように、拡大解釈で返すのである。確かに僕は、NHKを視聴するための受信機は設置していない。僕がテレビを置いているのは、主に映画を再生するためである。テレビ番組は、週に一度、フジテレビの競馬中継を出走時間の前後15分ほど見るだけだ。フジテレビのコンテンツに魅力があるのに、どうしてNHKにお金を払わなければならないのか。NHKの経営手法は集金人による緩やかな恐喝だが、フリーライドという側面もあるのだ。僕は基本的にテレビが嫌いなので、それ以外の番組は一切見ない。運悪く飲食店でテレビがついていると、拷問かと思う。子供の頃、この世で一番嫌いな番組が紅白歌合戦だった。歌謡界のヒエラルキーをひけらかしているように見えたからだ。

公共放送を見ていないせいで、僕に不利益があっただろうか。何もない。知識は本から得るもののほうがずっと身につく。音楽は映像がない方が想像力が働く。地震速報は、地震がすでに起こった後で放映されるので役に立たない。徐々に迫り来る災害に関しては、地方自治体が広報車を出動させるだろうし、インターネットの情報の方が早い。必要な情報が流れるまでテレビを凝視している方が危険だ。NHKは端的に言って不要なのである。公共性の高い放送は、民放で持ち回りにするなど一定の縛りを設ける形で実現できる。NHKにできて民放にできないことなどひとつもないだろう。

そういえば、あまりにNHKのことが嫌いで怒っているときに、思わず詩を書いてしまったことがある。以下がそれである。


ぼくはとてもおこってて
ぼくのおこりをねんりょうにしたら
ぼくはつきまでとんでって
つきはめいわくするでしょう


勝手に人を詩人にしてはいけない。

日本の安楽死議論は、いまだ根性論的な暗黒時代である


スイスやオランダでは一定の条件を満たせば、安楽死が法的に認められる。ジャーナリストの宮下洋一氏の著作『安楽死を遂げるまで』によれば、薬剤による安楽死はわずか20秒程度で苦しむ様子もなく絶命するという。何ら人らしい活動ができず、ひたすら死の恐怖や痛みや苦しみに長期間耐えることが、なぜ美徳とされるのか僕には分からない。残された家族がつらい、と言う主張があるが、家族は本人のつらさの解消を優先すべきだ。つらさをどちらが受け持つべきか、と言えば、健康な人・強い人が受け持てばいい。

 多くの自殺や孤独死、餓死まである現代の日本には、安楽死の法整備は朗報のように聞こえる。働かざるもの食うべからずという諺や、穀潰しといった言葉があるように、日本には「役に立たないなら死ね」という風潮がある。小田原市生活保護職員が『彼ら(保護申請者)の不正を見つけ出し、正しい職務を執行するため、我々は彼らを追跡し、不正を罰する』という英語表記のジャンパーを着ていたと言う事件からは、弱者に高圧的な政治の姿がありありと見て取れる。日本は、生活苦を訴える人を犯罪者扱いする社会なのだ。

「役に立たないので死にます」と言う人がいても、誰も手を差し伸べないような社会なのに、「安楽死で」と付け加えると、とたんに「家族のことを考えろ」だとか「苦しくても最後まで生きるのが人の務めだ」だとか説教を始める人たちが出てくる。小田原市生活保護職員流に言うのなら『彼ら(安楽死希望者)の甘い考えを見つけ出し、正しく生きさせるため、我々は彼らから安楽死を取り上げ、最後まで苦しめる』となる。

昭和時代の学校生活においては、部活動のしごきが美化されていた。中学生のとき、僕は剣道部だった。しばしば行われた猛稽古は、有段者の大人の師範が1人の部員を一方的に、滅多打ちにし、突き飛ばし、何度も転ばせ、引きずり回し、放り投げるというものだった。それを、部員全員が円陣を組んで見守るのである。もう立てないくらいになるまでそれをやって、最後に師範は、部員を抱きしめて見せる。よく耐えたな、と。こういう嗜虐的な茶番が美談のように語られるのが、昭和の風潮だった。今や根性論はスポーツ界で全否定されている。価値観が変わったというより、無意味さに気づいたと言うべきだろう。安楽死の議論レベルで言えば、現代の日本はいまだ根性論時代なのである。

夫婦別姓安楽死の法制化の議論には、同じような構造がある。どちらも、一方の価値観と相容れない別の価値観が一意的に否定されるのである。法が多様な価値観を認めないのが問題だと、僕は考える。夫婦別姓で言えば、同姓派は自分の権利を保護しつつ、別姓派の権利を認めない。一方で、別姓派は自分の権利と同様に、同姓派に同姓を選択する権利を認める。安楽死も同様で、反対派は他方の権利を認めず、賛成派は他方が最後まで生きる権利を認める。つまり、一方は他方の権利を奪い、逆の一方は他方の権利を奪わない。この状態を不公平だと、僕は思うのだ。安楽死賛成派が、生きたい反対派を無理やり安楽死させることはない。しかし、安楽死反対派は、賛成派を半ば脅迫しても無理やり生き延びさせるのである。

宮下氏は、日本に安楽死は必要ない、と結論づけている。この「日本に」という箇所に違和感を持った。死は、人間に普遍的な問題だと思うからだ。僕は映画が好きで、邦画だけでなく、アメリカ、イギリス、イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、ポーランドスウェーデンデンマーク、ロシア、オーストラリア、インド、イラン、中国、韓国など、これまで様々な国の映画を見てきた。どの国であろうと、愛と同様に死への悼みは共通項として表現されている。つくづく人類はよく似ているのだな、と思う。外見や言語の違いはあっても、感情や感覚においてはほとんど区別がつかない。だから、多くの映画で別の文化圏によるリメイクが可能になる。

安楽死を否定され、絶望を深める人は少なくないはずである。一方で、安楽死を単純に切り捨て、見た目だけの解決を図るのではなく、別の提案をする本もある。医師の長尾和宏氏の著作『痛くない死に方』には、平穏死という考え方が示されている。こちらは、安楽死に賛成する僕の腑にも落ちた。長尾氏は安楽死は自然でない、と指摘する。治療の過多を見極めつつ、痛みや苦しみを最大限緩和し、死の過程を受容する方が自然なのだと。

それは、確かに理想的なのかもしれないと思う一方で、家族のサポートや医療コストの問題があると思った。家族のサポートを受けられず、必要十分に苦痛が緩和されるだけの医療コストを負担できない人はどうすればいいのだろう。また、医師によって緩和技術にばらつきがあるのも気がかりな点だ。平穏死が期待できるのであれば、それを選択する人は多いだろうし、歓迎すべき考えだと思う。しかし、日本のセーフティー・ネットの目が現状のように粗いままなら、安楽死という選択は確保されるべきである。資本家は、奴隷的労働者を失うことを恐れて自殺や安楽死に反対するだろうが、労働力として計算できない人が安楽死したほうが「経済は強くなる」──自民党が選挙公約に掲げているように。安楽死を希望する人たちは、本当は死んで欲しい、という周囲の内なる声を忖度しているのかもしれない。それが幻聴だと、私たちは言えるだろうか。


https://ja.wikipedia.org/wiki/小田原ジャンパー事件 参照 訳は筆者による

断肉できない半端な人のための、フレキシタリアンという逃げ道


肉が好きである。子供の頃の一番のごちそうは、年1回だけ連れて行ってもらえたステーキ・チェーン店のステーキだった。その一方で、僕は昔から動物好きだった。しかし、葛藤はなかった。僕自身に動物を殺す必要も、その想像力もなかったからである。それは自分の見えないところで、どこかの誰かがやってくれていて、僕はいわば、不都合な楽屋を覗かすに、舞台だけを楽しめば良かった。

大人になって、肉好きの動物好きという自分の状態に、違和感が募るようになった。宮沢賢治文学からの影響も強く受けた。それでも、肉を断つなど無理だと思っていた僕は、感謝すれば許される、という理屈を考え出した。「いただきます」は、かつてあった生に感謝する言葉である。「ごちそうさま」は、今なおあるかもしれない霊を鎮める言葉である、と。

僕と妻に子供はないが、常にペットがそばにいた。ハムスターを飼い、ウサギを飼い、野良猫を拾って飼った。飼う動物に人との共通点を見出すほど、家族感覚が強まる。動物と人間との境があいまいになってくる。それでも、肉は食い続けた。世界には、猫を食べる人たちもいる。ショックだが、そのことを非難できない。食を否定することは、生を否定することだ。

植物には知性があると、科学的な観点から主張する人がいる。植物の根と根、葉と葉、根と葉は、互いに化学物質のやりとりで交信している。他の植物や、昆虫とも交信している。植物を構成するネットワークの働きは、全体で見れば動物の脳によく似ている。

ベジタリアンは植物を食べる。彼らの動物愛を一笑に付すべきではないが、植物にまでは及ばない範囲の愛である。さらにミクロ圏へ足を踏み入れると、水や空気にすら細菌(=命ある者)が含まれており、そのほとんどは唾液や胃酸によって死滅せられる。

話が飛躍しているだろうか。しかし、どこからが飛躍なのだろう。文化や個人によって、線引きの位置が異なるだけではないか。だからと言って、僕は肉食に耽るつもりはない。竹を割ったような、白黒はっきりつける、など威勢のいい言葉は信用ならない。命を1ついただくのと、10いただくのには差がある。

僕は現在、フレキシタリアンの立場を採っている。フレキシタリアンという言葉は、フレキシブルに由来する。曲がりやすい、という意味だ。フレキシタリアンというのは、なるべくベジタリアン的であろうとするけれど、時や場に応じて都合よく信条を曲げる人、というような意味である。ヘタレ感が半端ではないが、この中途半端さにこそ利点がある。

ベジタリアンとしてはくじけるであろう、多数の人を取り込むことが可能なのだ。それに、もし人類全員がベジタリアンになり、畜産をやめれば、その動物種は絶滅するかもしれない。種の保護という観点から、畜産には動物側の利益があると言える。極論の穴は狭いから、そこに陥ると身動きが取れなくなる。中庸は人々の住まう穴を広げる思想なのだ。

さて、ベジタリアン的であろうとすれば、食材の優先順位は次のように決まる。

植物 → 乳製品・卵 → 魚介類 → 鳥類 → 哺乳類

動物においては、人と脳の構造が似ている動物ほど後に置く。結局私たちは、人に近しい感情を動物に見出すときに、殺して食べることを躊躇するのだ。それは大脳新皮質の有無という形で解剖学的にも裏付けられる。また、カニバリズムを避けようとすれば、おのずとこのような考えに行き着く。

現在の僕は、野菜を中心に、卵、魚などを優先して摂り、肉が食べたい時にはできるだけ鶏肉を選び、それも少量にとどめる、という食生活を送っている。意外だったが、これで物足りないということは全然ない。料理は僕の家事担当なので、工夫次第で食生活は必要十分に充実する。外食に行った場合には、ラーメンや餃子などを食べることもある。これらを原理主義的に禁止にしないことが、フレキシタリアンの強み(持続可能性)なのだ。


※1 参考図書:『植物は〈知性〉をもっている』ステファノ・マンクーゾ著、久保耕司訳

100個のリンゴが収穫できたときに、82個を1人で持ち去る人がいる村に生まれて

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世界は陰謀に満ちている。82%の富を1%の人たちが独占している※1。100人の住む村で、100個のリンゴが収穫できたときに、82個を1人で持ち去る人がいるのだ。残りのわずか18個のリンゴを、99人の村人で分け合わなければならない。1人あたり1/4個としても、まだ27人ももらえない人がいる。こんな世界を信用しろと言われても無理だ。人々が正気を失って、地球を平らだと主張したり、温暖化など起きていない、と言い出すのも無理はない。

スマホをいじりながら、地球は平らなんだよ、と主張するのは滑稽だが、ほぼ無害である。しかし、温暖化なんてガセだよ、とガンガン化石燃料を燃やし、牛や豚をドカ食いし※2、タバコを吸いまくるのは※3、温暖化問題を棚上げしても、それ自体で無害ではない。温暖化陰謀説は、他の原因での自滅を引き寄せる。1つのリスクがなくなることは、ノー・リスクになることではない。逆に、温暖化は実際に起きている、と考えて行動すれば、その予測が外れた場合に悪影響が少ない。むしろ、旧来の工学に代替する科学の発達が見込める。

温暖化陰謀論者は、リンゴは200個獲れると主張する。あるいは無限個だって可能だと考える、村の面積は一定なのだが。そうすればトリクル・ダウンで、末端はリンゴの芯くらい手に入るんじゃないの、と自民党の政治家なら言うところだ。 我々は扇動者につられがちである。彼らの声はでかい。嘘だか何だか分からなくするほどにでかい。だが、いくら声がでかくても、それはしょせん1人分の声だ。つられて叫ぶ前に、でかさという権威を剥がしてみよう(参照:権威におもねる人は風邪をひきやすい論 )。その言説を科学の光で照らしてみよう。この世界は『つられて大声を出したら負けゲーム』である。戦争も環境破壊もいずれ、扇動者よりもむしろ大声に呼応した者たちの責である。


※1 朝日新聞DIGITALより引用https://www.asahi.com/articles/ASL1Q53MTL1QUHBI016.html(2019年7月14日閲覧)
※2 牛や豚から発生するメタンは二酸化炭素よりも温室効果が高い。また、牧場を増やすために森林が削られる。
※3 他人の健康被害と本人の中毒症状の解消にしか貢献しないタバコの生産のために、農作物の生産機会が失われ、その工程と物流から大量の二酸化炭素が発生している。

1秒と2秒のあいだ、あるいはホモとヘテロのあいだにある、永遠という名の薄い壁


小学生の頃、小数点の存在を知った時、変な気持ちになった。1秒と2秒の間には、1.5秒があり、1秒と1.5秒の間には、1.25秒があり、というふうに、どんどん小数点が増えていく。それはもう、永遠に増えていく。

変な気持ちのまま、大人になった。そして、あれ?と思った。1秒と2秒の間に、永遠に小数点が存在するのなら、1秒はいつまで経っても2秒になれないのでは? なにしろ、永遠である。1秒と2秒の間には、乗り越えられないはずの永遠という厚い壁がある。時計の針をじっと見る。

コチ。

永遠はあえなく過ぎ去り、1秒は2秒へとなる。

アインシュタインによれば、光速近くで飛ぶスペースシップ内の「コチ」は、自転する地球のスターバックス内の「コチ」よりも長くかかる。乗っているものが、光速に近づくほど、時間は永遠に近づくのだ。時間は古来からの謎で、トーマス・マンも『魔の山』で時間についてたびたび語るが、かの文豪も、語るほどに時間に逃げられたように思う。脱稿までに12年もかかったのはそのせいだろうか。時間を線引きしたり、定義することは、このように簡単ではない。

同じことが、人の性にも言える。

男性と女性の多様な性差「LGBT」がしばしば話題になっている。僕は以前から、すべてのヘテロセクシャルは、ホモセクシャルを併せ持っているとにらんでいた。その根拠は、ホモ嫌いなヘテロ男性も、一部の同性を「かっこいい」と言うし、同様にヘテロ女性も、一部の同性を「かわいい」と言うからである。同性をかっこいいと言うときの男性は、いくぶんかゲイ的である。同性をかわいいと言うときの女性は、いくぶんかレズビアン的である。

僕はそのように人を観察してきた。LGBTを激しく嫌悪する自称ヘテロセクシャルたちは、一般的性差の人よりもホモセクシャル寄りなのではないか、と僕は推察する。性差の間際にいることの自覚が、彼らに危機感を持たせる。そこにはごく薄い壁があるだけで、あちら側の声が耳元に聞こえてくるのだ。

コチ。

それはある日、彼らの性が変わる音。安泰だったはずの永遠が落下した音。自らしてきた差別が、自らの首を締めた音。しかし、心配はいらない。時代は、あなたを守る方向へ動いている。地球時間だから、スペースシップ内よりも速い時間で。