タバコがなぜ悪なのかを科学的な視点をふまえて絵本化してみた

 

アレルギー患者とは、人類のなかでも優れて敏感なセンサーをもつ人たちのことだと思う。彼らのおかげで、環境に危険が差し掛かってきたことを周囲はいち早く気づくことができるのである。ダーウィニズムの観点からすれば、センサーの鈍い豪傑ぞろいの部族は、敏感なセンサーをもつ病弱者を抱える部族よりも滅びやすいはずである。そういう意味からも、人の多様性のある国こそが真にタフなのだ、と言うことができる。

喫煙を制限する法制化が進むのは、アレルギー患者とその潜在者たちの一般よりも敏感なセンサーが、タバコの煙に対して異常を示すアラートを鳴らしているからではないかと思う時がある。都市部では特に、空気を浄化する樹木や土の地面が激減しており、粉塵や煤煙、細菌やウィルスがコンクリートアスファルトの間で絶えずかき回されている。人工林の放置による花粉の飛散は春の風景をすっかり変えてしまった。現代に詠まれる俳句でマスクとくれば、それは春の季語に違いない。さらに、空気や農作物には「ただちに健康には害のない程度の」放射性物質が含まれるようになり、最近では、水や食塩にもマイクロプラスティックが混ざっていることが明らかになった。環境の汚染が人体の許容量を超えようとしているようなこの時代に、街角や飲食店や職場で、追い討ちのようにタバコの悪臭が漂ってくる。このことへの多くの人々の身体的な反発が、タバコの規制を後押ししていると僕は考える。

タバコの煙が悪臭であることは、その主成分がアンモニアホルムアルデヒドであることから明確である。臭いが悪いだけでなく、タバコが有毒らしいということは、実は喫煙者も経験的にうすうす知っているはずだ。喫煙行為は、手始めにおいてかなり無理してその「不味さ」に慣れなければならない。不味さを我慢して吸い続けるうちに中毒になり、中毒ゆえに禁断症状が出るようになり、それを和らげるために喫煙するという循環が生まれる。よく言われるように、タバコはストレス解消に実質的に役立ってはいない。なぜなら、喫煙習慣がストレス源そのものだからだ。そもそも、喫煙者がなぜこのような自分自身に対して不正直な行為に取り組んだのかと言えば、それはひとえに見栄や格好つけのためである。この点において、映画産業の果たした役割は非常に大きいし、残念ながら今もなお大きい。

見栄や格好つけの誘惑の罠に、子供たちが将来陥らないようにするにはどうしたらいいだろう、と僕は考えた。そのためには、タバコを趣味嗜好の話ではなく、科学の話として語ればいいのではないか。タバコがなぜ有毒なのか、なぜ他人を傷つける可能性があるのかを科学的に理解できれば、タバコとは距離を置くようになるのではないか。子供はたいていの大人よりもずっと賢い。そのうえ、子供はすぐに大人になる。いま5歳の子がタバコの害を理解して、タバコを吸わない成人になるのにたった13年である。13年で世界が変われば素晴らしい。新しい世代の喫煙比率を下げることが、世の禁煙化を推し進めるための最善の策になるのは間違いない。

道路に、視覚障害者のためのブロックが敷かれていたり、車椅子のためのスロープがあるのは、弱者に配慮する良識に基づいている。弱者に配慮することは、自分が弱者になったときの世界を担保することにもつながる。対して多くの喫煙行為には、アレルギーだったり体質が弱かったり疾患のある者に、不利益を「我慢しろ」というパワハラめいた考えが潜んでいる。しかし、我慢をしなければならないのはどちらなのだろう。我慢できない、というのがタバコの異常さである。そしてひとたび誰かが喫煙すれば、平均以下の室内であればすみずみまで、屋外であれば風下約30メートルまでその害は拡散される。1人でも非常に広範囲を汚染しうるのがタバコの特徴である。そして、その毒が他人の遺伝子にどう作用するのかは絵本(かがくせんたい・ぴーこさん)に描いた通りである。

私たちは空気を共有している。空気を体内に取り入れて、内臓や血液を動かしている。空気は栄養価のない、しかし必須な「食べ物」であるとも言える。空気を汚さないように考えるのは、飲料水を汚さないようにするのと同じく自然なことだ。未来には、その価値観がすっかり行き渡っていると期待したい。僕は、タバコのない未来から現代を見つめることが必要だと考え、物語の締めくくりとした。未来から現代を見つめたとき、現代の事情を鑑みて、悪徳に同情的になる必要はない。そういう感情移入は、退行にしかならない。常に未来の倫理観で現代を照らせばいい(これは、過去と現在の関係についても同じことが言える。過去の倫理観にシンクロすることは現在を退行させる働きがある)。

世界はどう変わっていくべきなのか。私たちはどう変わるべきなのか。鍵を握っているのはいつも子供たちである。

 

 

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絵本の制作にあたっては『2100年の科学ライフ』(ミチオ・カク著、斎藤隆央訳)から大きな教示を得ました。なお、遺伝子の働きを擬人化するにあたって科学的に不正確な箇所がありましたら、それは僕の理解力不足や表現力不足に起因するものであり、参考文献の瑕疵ではありません。

この作品を印刷・出版・各種媒体を用いた流布・記事化等をしていただける、個人・団体・企業・教育機関・メディア様を募集しています。プロフィール内にある連絡先にメールしてください。なお、僕の職業はフリーランスのグラフィックデザイナーであり、科学や医療に関する専門家ではありません。

 

※2022年4月1日より成年年齢は20歳から18歳に変わる。

僕がネットとリアルの人格の使い分けを危険だと考える理由


インターネットの書き込みに罵詈雑言を見ない日はない。だから街に出ると変な気分になる。誰もそんな口調で喋ってはいないのだ。先日、高尾山に行ったとき、頂上で歩きタバコをしながら韓国人の民度についてとくとくと友人に語っていた男性がいたが、逆にネット文体で喋っている人を現実に見ると珍しいものを見た気になる。

これには2つの理由が推測される。1つは、ネットに頻繁に書き込む人は外出頻度が少ない、ということ。もう1つは、外出は人並みにするがネットとは別の人格を演じている、ということである。

このうち、人々はネットとリアルの人格を使い分けているかもしれない説について考える。これはいわば、意識的に解離性同一性障害の状態をつくり出すということだ。Wikipediaによれば、解離性同一性障害の問題は『複数の人格を持つということではなく、ひとつの人格すら持てない』※1 ことだという。複数の人格はそれぞれ、その人の全体ではなく部分でしかないので、様々な気質や感情がひとつの人格に統合された健常人よりも社会との適合が難しくなる、という主張のようだ。

ネットとリアルの人格を使い分けることで、その人の「部分」である人格が強調され、ネットに罵詈雑言が書き込まれる、と考えると腑に落ちる。これは一見、ただの鬱憤晴らしのようにも見える。しかし、自分の一面だけを、文章を記すことで強化するのは、別の面を圧殺してしまうことにならないだろうか。それが進行して「部分」がついに自分のほぼ全人格となってしまったとき、その人は、外国人に大人気の観光スポット・高尾山の山頂で韓国人の民度を語るような事態に陥ってしまうのではないか。

僕がネットで本名を晒して書いているのは、自分の「部分」に好ましくない気質を認めるからである。自分も含めて、人は本来多面的な存在であると考える。ブラハラ(ハラスメントはエロかサドかの考察と『ハラスメンタリスト』提案 )のハラスメントたる所以は、人に多面性を認めない狭量さにもある。多面的であるためには、自分の「部分」を変に強調したりむやみに解放したりしない必要がある。そして、多面的なのは人の魅力だ。僕はサザンオールスターズが好きだが、このバンドの魅力はまさに雑多な言葉や音を包括しているところにあると思っている。排除や隠蔽によって一面を際立たせるのではなく、聖も俗も全部認めて芸術的に晒け出すことのできるミュージシャンは稀少である。

罵詈雑言の言論は、その刺々しい衣を剥ぐと、中身が空っぽということがままある。自分で校閲をかけて、毒を抜き、それでもその主張に意味が残るのかを試してみるべきだ。僕はさらに、自分の文章からできるだけ主観的な形容詞を取り除くようにしている。形容詞に頼る書き方は危険だ。それは何か書いた気にさせるけれど、実は何も言っていないことが多い。

子供の頃、テレビ番組で流される録音された「笑い声」の演出が嫌いだった。だから僕は記号「w」も使わない。自作自演で笑いをマシマシ※2 にしているように見えるからだ。それは面白さの本質ではない。それと、自分によくあることだが、気づけば自分ひとりだけが笑っている、というリスクもある。普通に喋っているつもりなのに、いきなり相手が爆笑することもあるから、僕は笑いの感覚に長けたほうではないのだろう。そのように考え、僕は「w」を封印する。本当は使いたいんだけどw


※1 https://ja.wikipedia.org/wiki/解離性同一性障害Wikipedia参照)
※2 ラーメン用語で具材を大盛りにすること。

詩を書いてしまうほどNHKのことが嫌い


命はなぜ大切か、という問いにあなたはどう答えるだろう。かけがえがない、という人もいるだろう。美しいから、という人もいるだろうし、そのような刷り込みをしないと戦争になるから、という人もいるかもしれない。大切ではない、という人もいるだろう。さて、この問いに「命だから」という答えがあったとする。これは、問いに答えていない答え方だ。だから、その命はなぜ大切なのかが、質問者は知りたいのだから。

NHKの受信料制度の意義を問われたとき「公共放送だから」と答える政治家や官僚が多い。このとき僕は、上記と同じ堂々巡りに出会った気持ちになる。公共放送だから、というのは説明になっていない。なぜなら質問者は、公共放送はなぜ受信料を視聴しない者からも一律に徴収するのか、と訊いているからだ。NHK受信料をめぐる裁判でも、これと同じようなことが起こっている。NHKの不当性を訴える人に対し、裁判官は「放送法だから」として斥けるのである。NHKに関しては、不文律やタブーでもあるかのように、権力ははぐらかしで逃げる。彼らの正義は凍結され、その思考は麻痺している。

放送とは、機械による情報の発信と受信だ。単純だった機械が時代とともに進化し、多様になり、もはや原型をとどめたまま機能する機械などどこにもないのに、放送法が変わらないのはなぜだろう。新しい仕組みの機械が誕生するたびに、放送法は見直されるべきではないか。結局、化石のような放送法を保護し続けるのは、拡大解釈で強制徴収できる利点があるためだろう。しかし、この利点はNHKに限られるもののはずだ。政府や司法が、こぞってNHKを保護しようとするのはなぜか。国会議員と裁判官の胸のバッジをよくよく見ると「NHK」と彫られていたというオチだろうか。

ちなみに僕は、NHKの受信料を払ったことがない。本当にテレビがないときもあったが、テレビがあっても「受信機を設置していない」と言う。彼らと同じように、拡大解釈で返すのである。確かに僕は、NHKを視聴するための受信機は設置していない。僕がテレビを置いているのは、主に映画を再生するためである。テレビ番組は、週に一度、フジテレビの競馬中継を出走時間の前後15分ほど見るだけだ。フジテレビのコンテンツに魅力があるのに、どうしてNHKにお金を払わなければならないのか。NHKの経営手法は集金人による緩やかな恐喝だが、フリーライドという側面もあるのだ。僕は基本的にテレビが嫌いなので、それ以外の番組は一切見ない。運悪く飲食店でテレビがついていると、拷問かと思う。子供の頃、この世で一番嫌いな番組が紅白歌合戦だった。歌謡界のヒエラルキーをひけらかしているように見えたからだ。

公共放送を見ていないせいで、僕に不利益があっただろうか。何もない。知識は本から得るもののほうがずっと身につく。音楽は映像がない方が想像力が働く。地震速報は、地震がすでに起こった後で放映されるので役に立たない。徐々に迫り来る災害に関しては、地方自治体が広報車を出動させるだろうし、インターネットの情報の方が早い。必要な情報が流れるまでテレビを凝視している方が危険だ。NHKは端的に言って不要なのである。公共性の高い放送は、民放で持ち回りにするなど一定の縛りを設ける形で実現できる。NHKにできて民放にできないことなどひとつもないだろう。

そういえば、あまりにNHKのことが嫌いで怒っているときに、思わず詩を書いてしまったことがある。以下がそれである。


ぼくはとてもおこってて
ぼくのおこりをねんりょうにしたら
ぼくはつきまでとんでって
つきはめいわくするでしょう


勝手に人を詩人にしてはいけない。

日本の安楽死議論は、いまだ根性論的な暗黒時代である


スイスやオランダでは一定の条件を満たせば、安楽死が法的に認められる。ジャーナリストの宮下洋一氏の著作『安楽死を遂げるまで』によれば、薬剤による安楽死はわずか20秒程度で苦しむ様子もなく絶命するという。何ら人らしい活動ができず、ひたすら死の恐怖や痛みや苦しみに長期間耐えることが、なぜ美徳とされるのか僕には分からない。残された家族がつらい、と言う主張があるが、家族は本人のつらさの解消を優先すべきだ。つらさをどちらが受け持つべきか、と言えば、健康な人・強い人が受け持てばいい。

 多くの自殺や孤独死、餓死まである現代の日本には、安楽死の法整備は朗報のように聞こえる。働かざるもの食うべからずという諺や、穀潰しといった言葉があるように、日本には「役に立たないなら死ね」という風潮がある。小田原市生活保護職員が『彼ら(保護申請者)の不正を見つけ出し、正しい職務を執行するため、我々は彼らを追跡し、不正を罰する』という英語表記のジャンパーを着ていたと言う事件からは、弱者に高圧的な政治の姿がありありと見て取れる。日本は、生活苦を訴える人を犯罪者扱いする社会なのだ。

「役に立たないので死にます」と言う人がいても、誰も手を差し伸べないような社会なのに、「安楽死で」と付け加えると、とたんに「家族のことを考えろ」だとか「苦しくても最後まで生きるのが人の務めだ」だとか説教を始める人たちが出てくる。小田原市生活保護職員流に言うのなら『彼ら(安楽死希望者)の甘い考えを見つけ出し、正しく生きさせるため、我々は彼らから安楽死を取り上げ、最後まで苦しめる』となる。

昭和時代の学校生活においては、部活動のしごきが美化されていた。中学生のとき、僕は剣道部だった。しばしば行われた猛稽古は、有段者の大人の師範が1人の部員を一方的に、滅多打ちにし、突き飛ばし、何度も転ばせ、引きずり回し、放り投げるというものだった。それを、部員全員が円陣を組んで見守るのである。もう立てないくらいになるまでそれをやって、最後に師範は、部員を抱きしめて見せる。よく耐えたな、と。こういう嗜虐的な茶番が美談のように語られるのが、昭和の風潮だった。今や根性論はスポーツ界で全否定されている。価値観が変わったというより、無意味さに気づいたと言うべきだろう。安楽死の議論レベルで言えば、現代の日本はいまだ根性論時代なのである。

夫婦別姓安楽死の法制化の議論には、同じような構造がある。どちらも、一方の価値観と相容れない別の価値観が一意的に否定されるのである。法が多様な価値観を認めないのが問題だと、僕は考える。夫婦別姓で言えば、同姓派は自分の権利を保護しつつ、別姓派の権利を認めない。一方で、別姓派は自分の権利と同様に、同姓派に同姓を選択する権利を認める。安楽死も同様で、反対派は他方の権利を認めず、賛成派は他方が最後まで生きる権利を認める。つまり、一方は他方の権利を奪い、逆の一方は他方の権利を奪わない。この状態を不公平だと、僕は思うのだ。安楽死賛成派が、生きたい反対派を無理やり安楽死させることはない。しかし、安楽死反対派は、賛成派を半ば脅迫しても無理やり生き延びさせるのである。

宮下氏は、日本に安楽死は必要ない、と結論づけている。この「日本に」という箇所に違和感を持った。死は、人間に普遍的な問題だと思うからだ。僕は映画が好きで、邦画だけでなく、アメリカ、イギリス、イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、ポーランドスウェーデンデンマーク、ロシア、オーストラリア、インド、イラン、中国、韓国など、これまで様々な国の映画を見てきた。どの国であろうと、愛と同様に死への悼みは共通項として表現されている。つくづく人類はよく似ているのだな、と思う。外見や言語の違いはあっても、感情や感覚においてはほとんど区別がつかない。だから、多くの映画で別の文化圏によるリメイクが可能になる。

安楽死を否定され、絶望を深める人は少なくないはずである。一方で、安楽死を単純に切り捨て、見た目だけの解決を図るのではなく、別の提案をする本もある。医師の長尾和宏氏の著作『痛くない死に方』には、平穏死という考え方が示されている。こちらは、安楽死に賛成する僕の腑にも落ちた。長尾氏は安楽死は自然でない、と指摘する。治療の過多を見極めつつ、痛みや苦しみを最大限緩和し、死の過程を受容する方が自然なのだと。

それは、確かに理想的なのかもしれないと思う一方で、家族のサポートや医療コストの問題があると思った。家族のサポートを受けられず、必要十分に苦痛が緩和されるだけの医療コストを負担できない人はどうすればいいのだろう。また、医師によって緩和技術にばらつきがあるのも気がかりな点だ。平穏死が期待できるのであれば、それを選択する人は多いだろうし、歓迎すべき考えだと思う。しかし、日本のセーフティー・ネットの目が現状のように粗いままなら、安楽死という選択は確保されるべきである。資本家は、奴隷的労働者を失うことを恐れて自殺や安楽死に反対するだろうが、労働力として計算できない人が安楽死したほうが「経済は強くなる」──自民党が選挙公約に掲げているように。安楽死を希望する人たちは、本当は死んで欲しい、という周囲の内なる声を忖度しているのかもしれない。それが幻聴だと、私たちは言えるだろうか。


https://ja.wikipedia.org/wiki/小田原ジャンパー事件 参照 訳は筆者による

断肉できない半端な人のための、フレキシタリアンという逃げ道


肉が好きである。子供の頃の一番のごちそうは、年1回だけ連れて行ってもらえたステーキ・チェーン店のステーキだった。その一方で、僕は昔から動物好きだった。しかし、葛藤はなかった。僕自身に動物を殺す必要も、その想像力もなかったからである。それは自分の見えないところで、どこかの誰かがやってくれていて、僕はいわば、不都合な楽屋を覗かすに、舞台だけを楽しめば良かった。

大人になって、肉好きの動物好きという自分の状態に、違和感が募るようになった。宮沢賢治文学からの影響も強く受けた。それでも、肉を断つなど無理だと思っていた僕は、感謝すれば許される、という理屈を考え出した。「いただきます」は、かつてあった生に感謝する言葉である。「ごちそうさま」は、今なおあるかもしれない霊を鎮める言葉である、と。

僕と妻に子供はないが、常にペットがそばにいた。ハムスターを飼い、ウサギを飼い、野良猫を拾って飼った。飼う動物に人との共通点を見出すほど、家族感覚が強まる。動物と人間との境があいまいになってくる。それでも、肉は食い続けた。世界には、猫を食べる人たちもいる。ショックだが、そのことを非難できない。食を否定することは、生を否定することだ。

植物には知性があると、科学的な観点から主張する人がいる。植物の根と根、葉と葉、根と葉は、互いに化学物質のやりとりで交信している。他の植物や、昆虫とも交信している。植物を構成するネットワークの働きは、全体で見れば動物の脳によく似ている。

ベジタリアンは植物を食べる。彼らの動物愛を一笑に付すべきではないが、植物にまでは及ばない範囲の愛である。さらにミクロ圏へ足を踏み入れると、水や空気にすら細菌(=命ある者)が含まれており、そのほとんどは唾液や胃酸によって死滅せられる。

話が飛躍しているだろうか。しかし、どこからが飛躍なのだろう。文化や個人によって、線引きの位置が異なるだけではないか。だからと言って、僕は肉食に耽るつもりはない。竹を割ったような、白黒はっきりつける、など威勢のいい言葉は信用ならない。命を1ついただくのと、10いただくのには差がある。

僕は現在、フレキシタリアンの立場を採っている。フレキシタリアンという言葉は、フレキシブルに由来する。曲がりやすい、という意味だ。フレキシタリアンというのは、なるべくベジタリアン的であろうとするけれど、時や場に応じて都合よく信条を曲げる人、というような意味である。ヘタレ感が半端ではないが、この中途半端さにこそ利点がある。

ベジタリアンとしてはくじけるであろう、多数の人を取り込むことが可能なのだ。それに、もし人類全員がベジタリアンになり、畜産をやめれば、その動物種は絶滅するかもしれない。種の保護という観点から、畜産には動物側の利益があると言える。極論の穴は狭いから、そこに陥ると身動きが取れなくなる。中庸は人々の住まう穴を広げる思想なのだ。

さて、ベジタリアン的であろうとすれば、食材の優先順位は次のように決まる。

植物 → 乳製品・卵 → 魚介類 → 鳥類 → 哺乳類

動物においては、人と脳の構造が似ている動物ほど後に置く。結局私たちは、人に近しい感情を動物に見出すときに、殺して食べることを躊躇するのだ。それは大脳新皮質の有無という形で解剖学的にも裏付けられる。また、カニバリズムを避けようとすれば、おのずとこのような考えに行き着く。

現在の僕は、野菜を中心に、卵、魚などを優先して摂り、肉が食べたい時にはできるだけ鶏肉を選び、それも少量にとどめる、という食生活を送っている。意外だったが、これで物足りないということは全然ない。料理は僕の家事担当なので、工夫次第で食生活は必要十分に充実する。外食に行った場合には、ラーメンや餃子などを食べることもある。これらを原理主義的に禁止にしないことが、フレキシタリアンの強み(持続可能性)なのだ。


※1 参考図書:『植物は〈知性〉をもっている』ステファノ・マンクーゾ著、久保耕司訳

100個のリンゴが収穫できたときに、82個を1人で持ち去る人がいる村に生まれて

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世界は陰謀に満ちている。82%の富を1%の人たちが独占している※1。100人の住む村で、100個のリンゴが収穫できたときに、82個を1人で持ち去る人がいるのだ。残りのわずか18個のリンゴを、99人の村人で分け合わなければならない。1人あたり1/4個としても、まだ27人ももらえない人がいる。こんな世界を信用しろと言われても無理だ。人々が正気を失って、地球を平らだと主張したり、温暖化など起きていない、と言い出すのも無理はない。

スマホをいじりながら、地球は平らなんだよ、と主張するのは滑稽だが、ほぼ無害である。しかし、温暖化なんてガセだよ、とガンガン化石燃料を燃やし、牛や豚をドカ食いし※2、タバコを吸いまくるのは※3、温暖化問題を棚上げしても、それ自体で無害ではない。温暖化陰謀説は、他の原因での自滅を引き寄せる。1つのリスクがなくなることは、ノー・リスクになることではない。逆に、温暖化は実際に起きている、と考えて行動すれば、その予測が外れた場合に悪影響が少ない。むしろ、旧来の工学に代替する科学の発達が見込める。

温暖化陰謀論者は、リンゴは200個獲れると主張する。あるいは無限個だって可能だと考える、村の面積は一定なのだが。そうすればトリクル・ダウンで、末端はリンゴの芯くらい手に入るんじゃないの、と自民党の政治家なら言うところだ。 我々は扇動者につられがちである。彼らの声はでかい。嘘だか何だか分からなくするほどにでかい。だが、いくら声がでかくても、それはしょせん1人分の声だ。つられて叫ぶ前に、でかさという権威を剥がしてみよう(参照:権威におもねる人は風邪をひきやすい論 )。その言説を科学の光で照らしてみよう。この世界は『つられて大声を出したら負けゲーム』である。戦争も環境破壊もいずれ、扇動者よりもむしろ大声に呼応した者たちの責である。


※1 朝日新聞DIGITALより引用https://www.asahi.com/articles/ASL1Q53MTL1QUHBI016.html(2019年7月14日閲覧)
※2 牛や豚から発生するメタンは二酸化炭素よりも温室効果が高い。また、牧場を増やすために森林が削られる。
※3 他人の健康被害と本人の中毒症状の解消にしか貢献しないタバコの生産のために、農作物の生産機会が失われ、その工程と物流から大量の二酸化炭素が発生している。

1秒と2秒のあいだ、あるいはホモとヘテロのあいだにある、永遠という名の薄い壁


小学生の頃、小数点の存在を知った時、変な気持ちになった。1秒と2秒の間には、1.5秒があり、1秒と1.5秒の間には、1.25秒があり、というふうに、どんどん小数点が増えていく。それはもう、永遠に増えていく。

変な気持ちのまま、大人になった。そして、あれ?と思った。1秒と2秒の間に、永遠に小数点が存在するのなら、1秒はいつまで経っても2秒になれないのでは? なにしろ、永遠である。1秒と2秒の間には、乗り越えられないはずの永遠という厚い壁がある。時計の針をじっと見る。

コチ。

永遠はあえなく過ぎ去り、1秒は2秒へとなる。

アインシュタインによれば、光速近くで飛ぶスペースシップ内の「コチ」は、自転する地球のスターバックス内の「コチ」よりも長くかかる。乗っているものが、光速に近づくほど、時間は永遠に近づくのだ。時間は古来からの謎で、トーマス・マンも『魔の山』で時間についてたびたび語るが、かの文豪も、語るほどに時間に逃げられたように思う。脱稿までに12年もかかったのはそのせいだろうか。時間を線引きしたり、定義することは、このように簡単ではない。

同じことが、人の性にも言える。

男性と女性の多様な性差「LGBT」がしばしば話題になっている。僕は以前から、すべてのヘテロセクシャルは、ホモセクシャルを併せ持っているとにらんでいた。その根拠は、ホモ嫌いなヘテロ男性も、一部の同性を「かっこいい」と言うし、同様にヘテロ女性も、一部の同性を「かわいい」と言うからである。同性をかっこいいと言うときの男性は、いくぶんかゲイ的である。同性をかわいいと言うときの女性は、いくぶんかレズビアン的である。

僕はそのように人を観察してきた。LGBTを激しく嫌悪する自称ヘテロセクシャルたちは、一般的性差の人よりもホモセクシャル寄りなのではないか、と僕は推察する。性差の間際にいることの自覚が、彼らに危機感を持たせる。そこにはごく薄い壁があるだけで、あちら側の声が耳元に聞こえてくるのだ。

コチ。

それはある日、彼らの性が変わる音。安泰だったはずの永遠が落下した音。自らしてきた差別が、自らの首を締めた音。しかし、心配はいらない。時代は、あなたを守る方向へ動いている。地球時間だから、スペースシップ内よりも速い時間で。

 

のび太「神かよ!」ドラえもん「ぐふふ」未来論


子供の頃「神はすべてお見通し」と聞いたときには、心が真っ暗になった。庭で焚き火をして、カエルを生きたまま雪平鍋で煮たり、カマキリの餌にするためバッタの羽根をむしったりと、すでに悪道の限りを尽くした後だった。神はその報いに、僕を生きたまま地獄の釜で煮たり、手足を引きちぎって地獄に棲まう獣の餌にするだろう。絶望に打ちひしがれた。そんなとき、ドラえもんの存在は慰めになった。タイムマシンに乗れば、悪事をすべて回収して回れるのだ。

ドラえもんこそ神に思える。

「神かよ!」ネット上に頻出する言葉である。彼らが指すのは、天地を創造した神のことではないだろう。瑣末な事象にも使われるから、これは思うに「ドラえもんかよ!」の換言である。ドラえもん(=超便利)に、神性を見出した幼少の記憶が、彼らに「神かよ!」の言葉を使わせるのだ、たぶん。

ところで、ドラえもんといえば、わずかに浮いているのがネタになる。見るからに風船っぽい。彼は、ヘリウムガスではなく、未来科学の力で浮いている。しかし実は、我々人間もわずかに浮いているのである。原子レベルで見れば、電子の反発によって足は地面に接地できない。重力よりも、電磁気力の反発の方が強いからである。同様に、愛し合うふたりは永遠に触れ合うことができない、原子レベルでは。

神のつくりたもうた世界は、実に面白くできている。いわばこの世界は、謎解きに事欠かない、クイズ・ワールドである。当の仕掛け人はどこにいるのか? 世界中の人々が、かの人の概念を持っているのはなぜか。

脳学者ならば迷わず、電極やスーパーコンピュータやMRIを用いて脳内を探すだろう。それらは遠くない未来、神の住処をごく狭い範囲で正確に特定できるはずだ。僕は、こう予想する。神という言葉に反応する脳の箇所は、他の特定の言葉とも一致することが明らかになり、信心深い人たちを落胆させる、と。

その言葉とは「親」だ。

神の言葉や振る舞いは世界で多種多様だが、その概念はおおよそ一致している。宗教や人種・部族の垣根を超えて、世界の人々にある共通点こそ、親である。人はみな、立ち上がることも、しゃべることもできず、目もほとんど見えていない、この上なく弱い存在のときに、自分を生かすことも殺すことも、愛することも捨てることも自由にできる「絶対的な存在」に出会っている。それが、親である。

神を信じることは容易なのに、否定することが難しいのは、親の存在は疑いようがないからではないか。我々はみな、乳児期の親の残像を神と呼んでいるのかもしれない。しかし、がっかりすることはない。神がいなくとも、人類には代わりにドラえもんをつくる能力があるかもしれない。

今、火星では『キュリオシティ』が、同僚の『オポチュニティ』が砂にうずもれているのをよそに、火星を駆け回り、自撮りし、有機分子を発見するまでに、科学は進歩している。彼らを、キュリえもん、オポえもんと呼んでもいい。彼らは、ドラえもんの先駆けなのだから。今後さらに多種多様な『えもん』が現れ、進化し、やがて『ドラ』にたどり着く。その頃には、人類は神を必要としていないに違いない。親離れならぬ、神離れである。


ひみつ道具の中には『ガリバートンネル』のように、物理法則(原子のサイズは変えられない)から不可能なものもある。

祖先の争いを子孫が引き継ぐことの虚しさを数字で表す、そして箸文化圏構想


あなたがクローン人間でなければ、あなたは父の遺伝子を50%、母の遺伝子を50%持っている。さらに言えばあなたは、父方祖父の遺伝子を25%、父方祖母の遺伝子を25%、母方祖父の遺伝子を25%、母方祖母の遺伝子を25%持っている。さらに言えばあなたは、父方祖父方曽祖父の遺伝子を12.5%、父方祖父方曽祖母の遺伝子を12.5%、父方祖母方曽祖父の遺伝子を12.5%、父方祖母方曽祖母の遺伝子を12.5%、母方祖父方曽祖父の遺伝子を12.5%、母方祖父方曽祖母の遺伝子を12.5%、母方祖母方曽祖父の遺伝子を12.5%、母方祖母方曽祖母の遺伝子を12.5%持っている。

ひいお爺さんの1人とあなたに共通の遺伝子は12.5%しかない。逆に言えば、そのひいお爺さんとあなたは、87.5%もの異なる遺伝子を持っている。ひいお爺さんは、87.5%他人なのである。

もう1代遡れば6.25%、さらにもう1代遡れば3.125%と、ある1人の祖先との共通遺伝子は、加速的にゼロに近くなる。遺伝子を物差しにすれば、ほんの5~6代遡っただけで、祖先は実質的に他人だらけとなる。血統主義者であれば、少量にも意義があるとホメオパシーのような理屈を持ち出すかもしれない。しかし僕はむしろ、彼らに都合の悪い血が少量混ざっている可能性の方が高いと指摘しておこう。過去の他国人と祖先の争いを子孫が引き継ぐことの虚しさは、このように数字で表すことができる。血筋や血統という言葉には、不変の何かが受け継がれるような響きがあるが、それは幻想なのである。

先日読んだミチオ・カク氏の著作に、太古中国の皇帝が不老不死の妙薬を求めて、世界中に使者を送ったという記述があった。皇帝は、妙薬を見つけるまで帰国は許さぬ、と命じていたので、東方の島に赴いた使者たちはついに祖国をあきらめ、日本を建国したのだという。

この説が正しければ、日本人の祖先は中国皇帝の使者である。使者に抜擢されたくらいだから、優秀な人材だったに違いない。僕は、つい誇らしくなる。しかし正味、その優秀な遺伝子の何パーセントが、僕に伝わっているだろうか。前述の算数を持ち出すまでもない。ゼロ、と見なすのが適当だろう。清涼飲料水でいうところの無果汁。香料分すら伝わっていないはずである。あやうく、MAKE JAPAN GREAT AGAIN、とか書いてあるキャップをかぶるところだった。日本人というだけで人に褒めてもらおうだなんて、確率に笑われる。

ところで、周辺国に友達がいないと、西欧に揶揄される日本の現状を憂い、ひとつ提案を思いついた。「箸文化圏」という仲良しグループを作ったらどうか。我々は、箸でつながっている。箸による、架け橋。2つに割れている、のではない。2つで協働するのだ。食欲を刺激して、おいしく平和を味わいたいものである。


※ 図書館の蔵書で返却したので確認できないが『フューチャー・オブ・マインド』か『2100年の科学ライフ』のいずれか。