権威におもねる人は風邪をひきやすい論


神を信じる人が絶えないように、人の権威を信じる人も絶えない。神とは解明できない謎のことで、科学の進歩と共に神の出番は減った。しかし、些事には登場しなくなった神も、根源的な謎にはまだ居場所がある。小さ過ぎるものと大き過ぎるものは、たいてい謎だ。謎を認めつつも、僕は神を信じない。少なくとも、人によく似た形の神は。

神に比べれば、人の権威はまったく謎ではない。自分に与えられた条件(知性・身体性・階層)と相手のそれを比較して、差を認めたときに権威は発生する。しかし、それはないにも等しい誤差、錯覚にすぎない。何しろ、人には謎がなさ過ぎる。

大学生時代に、名古屋の今池という少々物騒な町で暮らしていた。風呂なしアパートに住んでいたので、銭湯通いだ。ときにそこは、入れ墨の裸体エキスポであった。自分以外ほぼ極道、みたいなときもあった。熱気むんむん、というか、熱気もんもんであった。百花繚乱の入れ墨の男たちは、概してきれい好きで、黙々と熱心に体を洗っていた。バンドマンらしく怪しい風貌の僕に紳士的にふるまった。お兄ちゃん、音楽やってるのか、と気さくに声をかけてきた。

入れ墨はもちろん、権威的にふるまいたい性によるのだろう。しかし、それは銭湯では無化していた。裸には権威がない。いくら入れ墨が立派でも、前を隠しながら(あるいはさらけ出しながらでも)恫喝などできない。

医者はこのことをよく理解しているはずである。人間に権威などない、というのはいわば解剖学的な視点である。科学は肉体を構成する原子やさらに小さい量子までをも見ることができる。そこまで凝視しても、権威は見つからない。人間の体のどこにもない、権威。

この点、オランウータンの方が分かりやすい。オスの頬のフランジは権威そのもので、群れのボス以外のオスにフランジは現れない。人間にそういったパーツはない。

あなたがドナーを受け取るときには、それに権威のラベルは貼られていない。医療の場においては、誰のドナーかは問題にならない。ドナーが合うかどうか、だけが問題である。人の平等を主張しうる根拠がここにある。

権威とは、裸の王様の着ている服のことである。だから、権威をあてにする人は風邪をひきやすい。僕はよく生意気だと言われるが、権威を無視することで、彼らが風邪をひかぬよう気を配ってあげているのである。