交換でなくお金を得る行為は、盗みである


人類史上最初に発明されたお金は、それ自体で価値があったに違いない。それが貝だったら、非常に珍しい貝だったろうし、石だったら、滅多に見られない石だっただろう。それ自体で価値があるので、それは何とでも交換できた。お金は便利過ぎて、古来の物々交換をあっさり駆逐した。お金自体に価値があるのだから、それは「新・物々交換」といった趣だったかもしれない。

ここまでは、お金は素晴らしいものだったに違いない。

たとえば、僕がオスの三毛猫を拾って飼っていたとしよう。オスの三毛猫はある染色体異常によってしか生まれない。その確率は3万分の1である。1匹のオス三毛を手に入れて飼うためには、2万9999匹のメス三毛を拾い集めて、飼う心づもりでいなければならない。これは確率なので、3万分の1といっても、最初の1匹がオス三毛かもしれないし、10万1匹目もまたメス三毛かもしれない。けれど、母数が天文学的に増えれば、確率は均されて、3万分の一という値は正確になっていく。結局、僕の猫を欲しがる人は多いだろう。

これを手に入れるためには、相応のお金を用意するのが早い。オスの三毛猫と同等の確率でしか手に入らない、他の希少なものを探し出すのには時間がかかる。その時間に30年かかったとすれば、当のオス三毛は天に召されている可能性が高い。あるいは、苦労して入手した珍奇なものというのが、AKB48コンサートの最前列チケットだったら、僕には無価値だ。受領するお金によって、新たに1匹の野良猫を拾ってまかなえるようになる(野良猫を拾って飼うのは初期治療にお金がかかる)のなら、僕はオス三毛を手放す──もちろん、生涯大切に飼養するという条件付きで。これで、従来1匹だった救済が2匹になる。

このように、人はお金を通じて婉曲な「交換」をするのである。働く人は、労働力とお金を交換している。税金ですら、市民を守る労働との交換であると言える。何かとの交換でなくお金を得る行為は、盗みである。盗みは悪だろうか? 盗みは悪であると、僕は考える。その理由は、盗みには合意がないからだ。飢えてパンを1個盗むのなら、くださいと頼むべきだ。そうすればあなたはパンを2個得るかもしれない。盗みでは得られなかったはずの温かい感情までついてくるだろう。合意には、友情をはぐくむ力がある。だから、もう一度言う。何かとの交換でなくお金を得る行為は、盗みであると。

以上が、僕がNHK受信料と家賃の礼金・更新料を憎む理由である。