のび太「神かよ!」ドラえもん「ぐふふ」未来論


子供の頃「神はすべてお見通し」と聞いたときには、心が真っ暗になった。庭で焚き火をして、カエルを生きたまま雪平鍋で煮たり、カマキリの餌にするためバッタの羽根をむしったりと、すでに悪道の限りを尽くした後だった。神はその報いに、僕を生きたまま地獄の釜で煮たり、手足を引きちぎって地獄に棲まう獣の餌にするだろう。絶望に打ちひしがれた。そんなとき、ドラえもんの存在は慰めになった。タイムマシンに乗れば、悪事をすべて回収して回れるのだ。

ドラえもんこそ神に思える。

「神かよ!」ネット上に頻出する言葉である。彼らが指すのは、天地を創造した神のことではないだろう。瑣末な事象にも使われるから、これは思うに「ドラえもんかよ!」の換言である。ドラえもん(=超便利)に、神性を見出した幼少の記憶が、彼らに「神かよ!」の言葉を使わせるのだ、たぶん。

ところで、ドラえもんといえば、わずかに浮いているのがネタになる。見るからに風船っぽい。彼は、ヘリウムガスではなく、未来科学の力で浮いている。しかし実は、我々人間もわずかに浮いているのである。原子レベルで見れば、電子の反発によって足は地面に接地できない。重力よりも、電磁気力の反発の方が強いからである。同様に、愛し合うふたりは永遠に触れ合うことができない、原子レベルでは。

神のつくりたもうた世界は、実に面白くできている。いわばこの世界は、謎解きに事欠かない、クイズ・ワールドである。当の仕掛け人はどこにいるのか? 世界中の人々が、かの人の概念を持っているのはなぜか。

脳学者ならば迷わず、電極やスーパーコンピュータやMRIを用いて脳内を探すだろう。それらは遠くない未来、神の住処をごく狭い範囲で正確に特定できるはずだ。僕は、こう予想する。神という言葉に反応する脳の箇所は、他の特定の言葉とも一致することが明らかになり、信心深い人たちを落胆させる、と。

その言葉とは「親」だ。

神の言葉や振る舞いは世界で多種多様だが、その概念はおおよそ一致している。宗教や人種・部族の垣根を超えて、世界の人々にある共通点こそ、親である。人はみな、立ち上がることも、しゃべることもできず、目もほとんど見えていない、この上なく弱い存在のときに、自分を生かすことも殺すことも、愛することも捨てることも自由にできる「絶対的な存在」に出会っている。それが、親である。

神を信じることは容易なのに、否定することが難しいのは、親の存在は疑いようがないからではないか。我々はみな、乳児期の親の残像を神と呼んでいるのかもしれない。しかし、がっかりすることはない。神がいなくとも、人類には代わりにドラえもんをつくる能力があるかもしれない。

今、火星では『キュリオシティ』が、同僚の『オポチュニティ』が砂にうずもれているのをよそに、火星を駆け回り、自撮りし、有機分子を発見するまでに、科学は進歩している。彼らを、キュリえもん、オポえもんと呼んでもいい。彼らは、ドラえもんの先駆けなのだから。今後さらに多種多様な『えもん』が現れ、進化し、やがて『ドラ』にたどり着く。その頃には、人類は神を必要としていないに違いない。親離れならぬ、神離れである。


ひみつ道具の中には『ガリバートンネル』のように、物理法則(原子のサイズは変えられない)から不可能なものもある。