断肉できない半端な人のための、フレキシタリアンという逃げ道


肉が好きである。子供の頃の一番のごちそうは、年1回だけ連れて行ってもらえたステーキ・チェーン店のステーキだった。その一方で、僕は昔から動物好きだった。しかし、葛藤はなかった。僕自身に動物を殺す必要も、その想像力もなかったからである。それは自分の見えないところで、どこかの誰かがやってくれていて、僕はいわば、不都合な楽屋を覗かすに、舞台だけを楽しめば良かった。

大人になって、肉好きの動物好きという自分の状態に、違和感が募るようになった。宮沢賢治文学からの影響も強く受けた。それでも、肉を断つなど無理だと思っていた僕は、感謝すれば許される、という理屈を考え出した。「いただきます」は、かつてあった生に感謝する言葉である。「ごちそうさま」は、今なおあるかもしれない霊を鎮める言葉である、と。

僕と妻に子供はないが、常にペットがそばにいた。ハムスターを飼い、ウサギを飼い、野良猫を拾って飼った。飼う動物に人との共通点を見出すほど、家族感覚が強まる。動物と人間との境があいまいになってくる。それでも、肉は食い続けた。世界には、猫を食べる人たちもいる。ショックだが、そのことを非難できない。食を否定することは、生を否定することだ。

植物には知性があると、科学的な観点から主張する人がいる。植物の根と根、葉と葉、根と葉は、互いに化学物質のやりとりで交信している。他の植物や、昆虫とも交信している。植物を構成するネットワークの働きは、全体で見れば動物の脳によく似ている。

ベジタリアンは植物を食べる。彼らの動物愛を一笑に付すべきではないが、植物にまでは及ばない範囲の愛である。さらにミクロ圏へ足を踏み入れると、水や空気にすら細菌(=命ある者)が含まれており、そのほとんどは唾液や胃酸によって死滅せられる。

話が飛躍しているだろうか。しかし、どこからが飛躍なのだろう。文化や個人によって、線引きの位置が異なるだけではないか。だからと言って、僕は肉食に耽るつもりはない。竹を割ったような、白黒はっきりつける、など威勢のいい言葉は信用ならない。命を1ついただくのと、10いただくのには差がある。

僕は現在、フレキシタリアンの立場を採っている。フレキシタリアンという言葉は、フレキシブルに由来する。曲がりやすい、という意味だ。フレキシタリアンというのは、なるべくベジタリアン的であろうとするけれど、時や場に応じて都合よく信条を曲げる人、というような意味である。ヘタレ感が半端ではないが、この中途半端さにこそ利点がある。

ベジタリアンとしてはくじけるであろう、多数の人を取り込むことが可能なのだ。それに、もし人類全員がベジタリアンになり、畜産をやめれば、その動物種は絶滅するかもしれない。種の保護という観点から、畜産には動物側の利益があると言える。極論の穴は狭いから、そこに陥ると身動きが取れなくなる。中庸は人々の住まう穴を広げる思想なのだ。

さて、ベジタリアン的であろうとすれば、食材の優先順位は次のように決まる。

植物 → 乳製品・卵 → 魚介類 → 鳥類 → 哺乳類

動物においては、人と脳の構造が似ている動物ほど後に置く。結局私たちは、人に近しい感情を動物に見出すときに、殺して食べることを躊躇するのだ。それは大脳新皮質の有無という形で解剖学的にも裏付けられる。また、カニバリズムを避けようとすれば、おのずとこのような考えに行き着く。

現在の僕は、野菜を中心に、卵、魚などを優先して摂り、肉が食べたい時にはできるだけ鶏肉を選び、それも少量にとどめる、という食生活を送っている。意外だったが、これで物足りないということは全然ない。料理は僕の家事担当なので、工夫次第で食生活は必要十分に充実する。外食に行った場合には、ラーメンや餃子などを食べることもある。これらを原理主義的に禁止にしないことが、フレキシタリアンの強み(持続可能性)なのだ。


※1 参考図書:『植物は〈知性〉をもっている』ステファノ・マンクーゾ著、久保耕司訳