日本の安楽死議論は、いまだ根性論的な暗黒時代である


スイスやオランダでは一定の条件を満たせば、安楽死が法的に認められる。ジャーナリストの宮下洋一氏の著作『安楽死を遂げるまで』によれば、薬剤による安楽死はわずか20秒程度で苦しむ様子もなく絶命するという。何ら人らしい活動ができず、ひたすら死の恐怖や痛みや苦しみに長期間耐えることが、なぜ美徳とされるのか僕には分からない。残された家族がつらい、と言う主張があるが、家族は本人のつらさの解消を優先すべきだ。つらさをどちらが受け持つべきか、と言えば、健康な人・強い人が受け持てばいい。

 多くの自殺や孤独死、餓死まである現代の日本には、安楽死の法整備は朗報のように聞こえる。働かざるもの食うべからずという諺や、穀潰しといった言葉があるように、日本には「役に立たないなら死ね」という風潮がある。小田原市生活保護職員が『彼ら(保護申請者)の不正を見つけ出し、正しい職務を執行するため、我々は彼らを追跡し、不正を罰する』という英語表記のジャンパーを着ていたと言う事件からは、弱者に高圧的な政治の姿がありありと見て取れる。日本は、生活苦を訴える人を犯罪者扱いする社会なのだ。

「役に立たないので死にます」と言う人がいても、誰も手を差し伸べないような社会なのに、「安楽死で」と付け加えると、とたんに「家族のことを考えろ」だとか「苦しくても最後まで生きるのが人の務めだ」だとか説教を始める人たちが出てくる。小田原市生活保護職員流に言うのなら『彼ら(安楽死希望者)の甘い考えを見つけ出し、正しく生きさせるため、我々は彼らから安楽死を取り上げ、最後まで苦しめる』となる。

昭和時代の学校生活においては、部活動のしごきが美化されていた。中学生のとき、僕は剣道部だった。しばしば行われた猛稽古は、有段者の大人の師範が1人の部員を一方的に、滅多打ちにし、突き飛ばし、何度も転ばせ、引きずり回し、放り投げるというものだった。それを、部員全員が円陣を組んで見守るのである。もう立てないくらいになるまでそれをやって、最後に師範は、部員を抱きしめて見せる。よく耐えたな、と。こういう嗜虐的な茶番が美談のように語られるのが、昭和の風潮だった。今や根性論はスポーツ界で全否定されている。価値観が変わったというより、無意味さに気づいたと言うべきだろう。安楽死の議論レベルで言えば、現代の日本はいまだ根性論時代なのである。

夫婦別姓安楽死の法制化の議論には、同じような構造がある。どちらも、一方の価値観と相容れない別の価値観が一意的に否定されるのである。法が多様な価値観を認めないのが問題だと、僕は考える。夫婦別姓で言えば、同姓派は自分の権利を保護しつつ、別姓派の権利を認めない。一方で、別姓派は自分の権利と同様に、同姓派に同姓を選択する権利を認める。安楽死も同様で、反対派は他方の権利を認めず、賛成派は他方が最後まで生きる権利を認める。つまり、一方は他方の権利を奪い、逆の一方は他方の権利を奪わない。この状態を不公平だと、僕は思うのだ。安楽死賛成派が、生きたい反対派を無理やり安楽死させることはない。しかし、安楽死反対派は、賛成派を半ば脅迫しても無理やり生き延びさせるのである。

宮下氏は、日本に安楽死は必要ない、と結論づけている。この「日本に」という箇所に違和感を持った。死は、人間に普遍的な問題だと思うからだ。僕は映画が好きで、邦画だけでなく、アメリカ、イギリス、イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、ポーランドスウェーデンデンマーク、ロシア、オーストラリア、インド、イラン、中国、韓国など、これまで様々な国の映画を見てきた。どの国であろうと、愛と同様に死への悼みは共通項として表現されている。つくづく人類はよく似ているのだな、と思う。外見や言語の違いはあっても、感情や感覚においてはほとんど区別がつかない。だから、多くの映画で別の文化圏によるリメイクが可能になる。

安楽死を否定され、絶望を深める人は少なくないはずである。一方で、安楽死を単純に切り捨て、見た目だけの解決を図るのではなく、別の提案をする本もある。医師の長尾和宏氏の著作『痛くない死に方』には、平穏死という考え方が示されている。こちらは、安楽死に賛成する僕の腑にも落ちた。長尾氏は安楽死は自然でない、と指摘する。治療の過多を見極めつつ、痛みや苦しみを最大限緩和し、死の過程を受容する方が自然なのだと。

それは、確かに理想的なのかもしれないと思う一方で、家族のサポートや医療コストの問題があると思った。家族のサポートを受けられず、必要十分に苦痛が緩和されるだけの医療コストを負担できない人はどうすればいいのだろう。また、医師によって緩和技術にばらつきがあるのも気がかりな点だ。平穏死が期待できるのであれば、それを選択する人は多いだろうし、歓迎すべき考えだと思う。しかし、日本のセーフティー・ネットの目が現状のように粗いままなら、安楽死という選択は確保されるべきである。資本家は、奴隷的労働者を失うことを恐れて自殺や安楽死に反対するだろうが、労働力として計算できない人が安楽死したほうが「経済は強くなる」──自民党が選挙公約に掲げているように。安楽死を希望する人たちは、本当は死んで欲しい、という周囲の内なる声を忖度しているのかもしれない。それが幻聴だと、私たちは言えるだろうか。


https://ja.wikipedia.org/wiki/小田原ジャンパー事件 参照 訳は筆者による