詩を書いてしまうほどNHKのことが嫌い


命はなぜ大切か、という問いにあなたはどう答えるだろう。かけがえがない、という人もいるだろう。美しいから、という人もいるだろうし、そのような刷り込みをしないと戦争になるから、という人もいるかもしれない。大切ではない、という人もいるだろう。さて、この問いに「命だから」という答えがあったとする。これは、問いに答えていない答え方だ。だから、その命はなぜ大切なのかが、質問者は知りたいのだから。

NHKの受信料制度の意義を問われたとき「公共放送だから」と答える政治家や官僚が多い。このとき僕は、上記と同じ堂々巡りに出会った気持ちになる。公共放送だから、というのは説明になっていない。なぜなら質問者は、公共放送はなぜ受信料を視聴しない者からも一律に徴収するのか、と訊いているからだ。NHK受信料をめぐる裁判でも、これと同じようなことが起こっている。NHKの不当性を訴える人に対し、裁判官は「放送法だから」として斥けるのである。NHKに関しては、不文律やタブーでもあるかのように、権力ははぐらかしで逃げる。彼らの正義は凍結され、その思考は麻痺している。

放送とは、機械による情報の発信と受信だ。単純だった機械が時代とともに進化し、多様になり、もはや原型をとどめたまま機能する機械などどこにもないのに、放送法が変わらないのはなぜだろう。新しい仕組みの機械が誕生するたびに、放送法は見直されるべきではないか。結局、化石のような放送法を保護し続けるのは、拡大解釈で強制徴収できる利点があるためだろう。しかし、この利点はNHKに限られるもののはずだ。政府や司法が、こぞってNHKを保護しようとするのはなぜか。国会議員と裁判官の胸のバッジをよくよく見ると「NHK」と彫られていたというオチだろうか。

ちなみに僕は、NHKの受信料を払ったことがない。本当にテレビがないときもあったが、テレビがあっても「受信機を設置していない」と言う。彼らと同じように、拡大解釈で返すのである。確かに僕は、NHKを視聴するための受信機は設置していない。僕がテレビを置いているのは、主に映画を再生するためである。テレビ番組は、週に一度、フジテレビの競馬中継を出走時間の前後15分ほど見るだけだ。フジテレビのコンテンツに魅力があるのに、どうしてNHKにお金を払わなければならないのか。NHKの経営手法は集金人による緩やかな恐喝だが、フリーライドという側面もあるのだ。僕は基本的にテレビが嫌いなので、それ以外の番組は一切見ない。運悪く飲食店でテレビがついていると、拷問かと思う。子供の頃、この世で一番嫌いな番組が紅白歌合戦だった。歌謡界のヒエラルキーをひけらかしているように見えたからだ。

公共放送を見ていないせいで、僕に不利益があっただろうか。何もない。知識は本から得るもののほうがずっと身につく。音楽は映像がない方が想像力が働く。地震速報は、地震がすでに起こった後で放映されるので役に立たない。徐々に迫り来る災害に関しては、地方自治体が広報車を出動させるだろうし、インターネットの情報の方が早い。必要な情報が流れるまでテレビを凝視している方が危険だ。NHKは端的に言って不要なのである。公共性の高い放送は、民放で持ち回りにするなど一定の縛りを設ける形で実現できる。NHKにできて民放にできないことなどひとつもないだろう。

そういえば、あまりにNHKのことが嫌いで怒っているときに、思わず詩を書いてしまったことがある。以下がそれである。


ぼくはとてもおこってて
ぼくのおこりをねんりょうにしたら
ぼくはつきまでとんでって
つきはめいわくするでしょう


勝手に人を詩人にしてはいけない。