僕がネットとリアルの人格の使い分けを危険だと考える理由


インターネットの書き込みに罵詈雑言を見ない日はない。だから街に出ると変な気分になる。誰もそんな口調で喋ってはいないのだ。先日、高尾山に行ったとき、頂上で歩きタバコをしながら韓国人の民度についてとくとくと友人に語っていた男性がいたが、逆にネット文体で喋っている人を現実に見ると珍しいものを見た気になる。

これには2つの理由が推測される。1つは、ネットに頻繁に書き込む人は外出頻度が少ない、ということ。もう1つは、外出は人並みにするがネットとは別の人格を演じている、ということである。

このうち、人々はネットとリアルの人格を使い分けているかもしれない説について考える。これはいわば、意識的に解離性同一性障害の状態をつくり出すということだ。Wikipediaによれば、解離性同一性障害の問題は『複数の人格を持つということではなく、ひとつの人格すら持てない』※1 ことだという。複数の人格はそれぞれ、その人の全体ではなく部分でしかないので、様々な気質や感情がひとつの人格に統合された健常人よりも社会との適合が難しくなる、という主張のようだ。

ネットとリアルの人格を使い分けることで、その人の「部分」である人格が強調され、ネットに罵詈雑言が書き込まれる、と考えると腑に落ちる。これは一見、ただの鬱憤晴らしのようにも見える。しかし、自分の一面だけを、文章を記すことで強化するのは、別の面を圧殺してしまうことにならないだろうか。それが進行して「部分」がついに自分のほぼ全人格となってしまったとき、その人は、外国人に大人気の観光スポット・高尾山の山頂で韓国人の民度を語るような事態に陥ってしまうのではないか。

僕がネットで本名を晒して書いているのは、自分の「部分」に好ましくない気質を認めるからである。自分も含めて、人は本来多面的な存在であると考える。ブラハラ(ハラスメントはエロかサドかの考察と『ハラスメンタリスト』提案 )のハラスメントたる所以は、人に多面性を認めない狭量さにもある。多面的であるためには、自分の「部分」を変に強調したりむやみに解放したりしない必要がある。そして、多面的なのは人の魅力だ。僕はサザンオールスターズが好きだが、このバンドの魅力はまさに雑多な言葉や音を包括しているところにあると思っている。排除や隠蔽によって一面を際立たせるのではなく、聖も俗も全部認めて芸術的に晒け出すことのできるミュージシャンは稀少である。

罵詈雑言の言論は、その刺々しい衣を剥ぐと、中身が空っぽということがままある。自分で校閲をかけて、毒を抜き、それでもその主張に意味が残るのかを試してみるべきだ。僕はさらに、自分の文章からできるだけ主観的な形容詞を取り除くようにしている。形容詞に頼る書き方は危険だ。それは何か書いた気にさせるけれど、実は何も言っていないことが多い。

子供の頃、テレビ番組で流される録音された「笑い声」の演出が嫌いだった。だから僕は記号「w」も使わない。自作自演で笑いをマシマシ※2 にしているように見えるからだ。それは面白さの本質ではない。それと、自分によくあることだが、気づけば自分ひとりだけが笑っている、というリスクもある。普通に喋っているつもりなのに、いきなり相手が爆笑することもあるから、僕は笑いの感覚に長けたほうではないのだろう。そのように考え、僕は「w」を封印する。本当は使いたいんだけどw


※1 https://ja.wikipedia.org/wiki/解離性同一性障害Wikipedia参照)
※2 ラーメン用語で具材を大盛りにすること。