どちらが「えらい」か、という病気

 

親は「えらい」
先生は「えらい」
などと子供は言われます。

しかし、「えらい」って何なのでしょう。

「えらい」を武器に、子供をなぐる親や先生がいます。なぐるのには、手や足や道具を使ったり、いやな言葉を使ったりするのです。子供のころに「えらい」をしつけられて大人になると、その人はまた子供に同じことをする。そうして「えらい」という文化が代々に受け継がれ、どちらが「えらい」かに人々はとらわれて生きることになるのです。

どうも、この「えらい」というのはろくでもないやつだ。と、僕はずっと思ってきました。

子供同士のあいだには「えらい」というのはない。強いとか弱いはある。かしこいとかバカとかはある。しかし「えらい」というのはない。だから僕は、じぶんたちの世代が大人になれば「えらい」は滅びて、もっとましな世界になるとずっと思ってきた。しかし、大人になってみれば、やっぱり世間には「えらい」がはびこっている。

どうも、おかしいな。「えらい」人もそうでない人も、食べ物から栄養をとり、排泄し、病気になれば同じような薬をのむ。大臣が「えらい」という人もいる。天皇が「えらい」という人もいる。しかし、大臣も天皇も、君も僕も、同じような仕組みの体を持ち、同じような原子が組み合わさってでできている。「えらい」のラベルをはがせば、みんなただの「人間」だ。

僕にしてみれば、「えらい」とはただの幻です。

「えらい」には質量がありません。「えらい」は目視できません。それでも「えらい」には意味があるのでしょうか。それは、ある、と断言する人がいるでしょう。だぶんその人は、みんなに「えらい」と言われている人です。「えらい」側にたどり着いたから、もうなぐられる心配はない、と考える人です。ひょっとしたら、これでやっと他人を「なぐれる」と思う人かもしれません。

そんな「えらい」でも生み出すものがあります。そうしたものの一つが、敬語です。敬語を使うというのは、会話のたびに、どちらが「えらい」かを確認するということです。それは、もう会話とは呼べません。会話というのは、情報や感情を交換することのはずですが、「えらい」がはさまると、ただ一方がしゃべっているだけになってしまいます。脳を1つ使うか、2つ使うか、どちらのほうがかしこい選択でしょう。「えらい」には、そんな判断もできなくする働きがあるのです。

「えらい」が生み出すもっと悪いものは「怒り」です。

子供のころに「えらい」を武器に、親や先生にさんざんなぐられた人は、無意識のうちに「怒り」をかかえて育つようになります。怒りをかかえて生きる人ほど、他人に冷たく、弱い人を笑うようになります。その人が「えらい」立場につけば、「えらい」を文化として認め、社会的に強化しようとするでしょう。社会的に「えらい」立場につけなかった人でも、子供をつくることで、家庭内に「えらい」を築くことができます。そうして、自らの無意識の「怒り」を発散し、新たな「怒り」を生産するわけです。

「えらい」をやめませんか。

人は人を「敬う」のではなく、人に「親しむ」べきだと思うのです。大人になって仕事をするのに、最大のじゃまものは「えらい」です。お金を払うほうが「えらい」と、とてもたくさんの人が信じているので、お金とサービスという等価な交換が、どちらが頭を下げるかという話に置き変わってしまうのです。「えらい」は温かいはずの人間関係を、冷え切った上下関係に変えてしまいます。それは、必要悪ですらなく、現代の未熟な人間社会がかかえる一過性の病なのです。