画商

 画商のところに一人の貧しい画家がやってきた。一目見るなり、画商はいやな気持ちになった。画家は若く、青白くやせて、目が輝いていた。身なりは貧しいものだったが、それが魅力にさえ映るような風貌だった。こういう男にどうせ大した絵は描けまい、と画商はパイプに火をつけた。
「僕の絵を見ていただけませんか」
 画家は、店には誰もいないような顔をしてパイプをふかしている画商に、おずおずと声をかけた。画商は横目で青年を見て「ああ、だめだめ。うちの基準は厳しいんだ。今きみの周りを囲んでいる絵を見てみなさい。どれも優秀な作品だが、それとて絶対に売れるというものじゃない。きみ程度の売り込みを相手にしていたら、こっちは商売あがったりだ」と言って、店の奥に姿を消した。
 青年はいったん店を出たが、やはりあきらめきれないというように引き返し、包みをほどいて勝手に自分の絵をカウンターに立てかけた。
「絵を置いていきます。明日引き取りにきますから、一目でも見てください」と言って店を去った。
 画商は太った体を難儀そうに揺らしながら出てきて「迷惑な奴だ」と言い、裏を向いている絵を返した。
 絵は素晴らしい出来栄えだった。いや、素晴らしいどころではない。天性にしがたって運ばれた筆によるものとしか思えない、見たこともない豊穣な世界がそこには描かれていた。画商の目は何分もその絵から離れることができなかった。そしてその清透な余韻が少しずつ去るのに重なって、今度は煮えるような憎しみの感情が湧き上がってきた。
 こんな絵は葬ってやろう、と画商は思った。しかし、腰を下ろしてパイプを吸い、混乱がおさまってくると、元来の商売気に心がかたむいていった。

 翌日、貧しい画家はやってきた。今度は画商の方から声をかけた。
「きみの絵だが、うちで取り扱おうと思う。売り値は50トーキヨ。うちの手数料は70パーセント。つまり、売れたら15トーキヨがきみの取り分になる、とこういうわけだ」
 青年の頬は普段よりももっと青ざめた。
「しかし、こんな絵が1500トーキヨで売られている。隣のは2800トーキヨ。僕の絵はこれらの絵よりも劣っていますか」
 画商は、一瞬自分の胸に何かが刺さったように感じたが、それを太い指でひねりつぶすように強い調子で言った。
「そんなのはきみの知ったことじゃない。いやなら隣町にでも行くことだ」
「しかし、この辺りでは、こちらしか絵を売るところはないんです。遠くの町に行く旅費も僕にはない。アパートの賃料は月150トーキヨです。そんな値では、売れたとしてもひと月も暮らせやしない」
「じゃあ画家になるのはあきらめなさい。きみは若いんだから、他に何だってできるだろう」
「僕には、絵を描くこと以外のすべてが苦痛なのです」
 青年はそう言って絶句した。目は涙の膜でおおわれて、力を失っていた。画商は大いに満足し、そして言った。
「きみの熱意に負けて、今回は手数料を60パーセントにしてあげよう。それが不満なら、今度こそその出来損ないを持って帰ってくれ」
 青年は返事もせず、絵を置いたまま帰って行った。画商はすぐに絵を店頭の一番よく見える場所に展示した。そして50トーキヨの値札をつけた。

 青年の絵は三日後に売れた。
「これは大した絵だが、本当に50トーキヨかね」と手にした紳士は言った。
「駆け出しなのでね。そんなものですよ。もしご予算に余裕がおありでしたら、他の絵でお勧めがあります」と言って、画商は2800トーキヨの絵を持ち出した。
「悪くはないが、凡庸だな」と紳士は言った。
「今後、値上がりしますよ。私のお気に入りの画家です」
 画商が本当に気に入っていたのは、絵そのものではなく、その画家の凡庸さだった。画商は、自分自身画家を志して挫折した人間だった。彼は、誰かの絵を模倣することはできたが、自分の絵にたどりつくことはなかった。自分自身をさがして求めて、自分など無いに等しいと気づいた人間だった。
「そうか。じゃあこっちは投機で買っとこう」と紳士は言った。

 それから画商は20トーキヨを封筒に入れて、青年が現れるのを待ったが、彼は現れなかった。そして、非凡な絵や、それを描いた貧しい画家など忘れかけていたころに、新聞で小さな記事を見つけた。
 隣町のアパートで餓死した青年の死体が発見され、彼の手によると思われる絵画十数点が発見されたが、その絵の出来栄えに美術界がちょっとした騒ぎになっているという。ある美術評論家によれば、それらの絵は『真に独創的と言える稀有な才能』ということだった。

 画商は無感情に新聞をたたみ、パイプに火をつけた。通りを眺めて、やがて立ち上がり、またすぐに椅子にかけた。彼は懸命に煙を吸おうとしていた。しかし、いくら深く吸っても味はしなかった。

©新貝直人