ローセムと森

 森から青い空気が流れてきた。その青い空気を、ローセムの苦しい胸はいっぱいに吸いこんだ。体が清らかになって、透明になって、消えてしまうような気がした。それから、ゆっくりと息を吐いた。ローセムの吐く息は黄色かった。森はその黄色をたちまち吸い取っていった。ふもとの町の人たちの吐く黄色も、森のなかにひそむ動物たちの吐く黄色も、森自身の吐く黄色も、森は吸いこんで、そして瞬く間に青色に変えて吐き出すのだった。

 不思議だな、とローセムは思った。

 昨日までは、森の吐く息も僕の吐く息も、ぜんぜん見えなくて透明だった。だからぼくらは息なんてないみたいにふるまっていたんだ。

 それに、とローセムは笑いをこらえながら思った。

 今日のぼくは、森より大きくなることだってできる。

 ローセムがどうしてそう思ったのかは分からない。しかし、それができると思った次の瞬間には、もうそうなっていた。ローセムの体は、森よりもずっと大きかった。頭が空につかえそうだった。下を見ると、つまさきのすぐ前に、まるで落としたソフトクリームみたいな大きさになった森があった。

「足を伸ばして、ぼくの指が入るように」とローセムはかがみこんで森にささやいた。

 すると、森は根っこを伸ばして自らの体を持ち上げた。その根っこのあいだに指を差し入れて、ローセムは森をすくいあげた。

 森の下から、細かい土がこぼれ落ちていった。落ちた瞬間から、土はもう茶色ではなくなった。白砂糖のように白く、光を放ってきらきら輝いた。土のひと粒ひと粒がすべて生きていた。小さな生き物たちは光りながら、こな雪のように地面に降りつもっていき、こぶりな山をつくった。

 そこへ、一匹のネズミがやってきた。ネズミは年老いていた。きらきら光るこぶりな山を見て、にっこり笑った。そこに穴を掘って、自分の体を半分だけうずめた。

 ローセムの目に涙がたまっていった。ネズミがそのまま死んでしまったのが分かったからだ。ネズミの体は、すっかり小さな生き物たちでおおわれた。やがて、白く輝く生き物の群れは、ネズミの骨の形になった。

 そうなると、ローセムは悲しい気持ちではなくなった。一つが無数に変わった、と思った。そして、白い生き物たちにかぶせるようにして、手に持っていた森をふたたび地面においた。森はお墓のように見えた。ローセムは目を閉じて、額から胸へ、左肩から右肩へと十字を切った。

 目を開くと、目の前に白く輝く巨大な生き物たちがうごめいていた。それは獣と呼べるほど大きな虫で、スズムシみたいな形をしていた。ローセムは、自分がそう望んだわけではないのに、今度はものすごく小さくなってしまったのだった。すぐそばに、まっ黒な、とげだらけの電信柱が空から降ってきた。それはアリの脚だった。

 白く輝く生き物たちは、ローセムがびっくりしているのを見て笑った。それで、ローセムもつられて笑った。見上げると、そこは森の根っこの下だということが分かった。人間の目には見えないくらい小さな体でいるのは、気持ちのいいことだった。ローセムは体の軽さが楽しくて、森の根っこから根っこへと飛び移って遊んだ。

 しばらくすると、ふいに体が重くなって、それから光り始めた。そして、激しく痙攣したと思ったら、ローセムは二人になった。またしばらく経つと、二人のローセムは四人になっていた。そうして、ローセムは無限に増えていった。もともとのローセムが森に向かってさけんだ。

「たすけて!」

 森は返事をしなかった。ローセムは両手で目を押さえて、落ちてくる涙を受け止めた。そのときに、だれかが肩をたたいた。

 振り向くと、ローセムがいた。

 それは、森より大きな巨人でもなければ、人の目に見えないこびとでもない、普通の人間の自分だった。

「きみは、ぼくだね」とそのローセムは言った。

「ぼくは、ぼくだよ。きみは、だれかだ」と、ローセムは言った。

「ぼくは、ローセムだよ」

「ぼくが、ローセムだ。ぼくは、森の吐く青い空気を見ることだってできる。森より大きくなって、ネズミにお墓をつくってあげることだってできるんだ」

 そのローセムはけげんそうな顔をして、大人みたいなそぶりで、鼻から息を大きく吐いた。それから、急にこんな質問をしてきた。

「きみは、ローセムって言葉の意味を知っているかい?」

 今度はローセムはけげんそうな顔をする番だった。そんなことは考えたこともなかった。

「知らない。でも、ぼくがほんとうのローセムだ」

「もしもきみがローセムなら、ぼくはにせものだ。にせものだから、ぼくは森に帰るよ。きみは町の家に帰ればいい」

 そう言うとすぐに、そのローセムは目の前から消えた。だれかがリモコンでテレビのスイッチを切ったみたいだった。

 やっぱりにせものだったんだ、とローセムは思った。

 自分がローセムでないとしたら、いったいだれなのか。ローセムは不安になり始めた。けれど、少し時間がたつと、にせものでもだれかといっしょにいるほうがよかったかな、と思い始めた。空は明るいし、まだ家には帰りたくないと思った。あいつは悪いやつじゃなさそうだ。なにしろ、ぼくにそっくりだったし。たしか、森に帰るって言ってたな。そう考えて、ローセムはまた森へ向かって歩き始めた。

 しかし、いくら歩いても森にはたどり着かないのだ。不思議に思ってよく見ると、ローセムが近づいたぶんだけ、森はあとずさりをしていた。

「逃げないで! ぼくは、ローセムだよ」とローセムはさけんだ。

「ローセムはもうわたしの中にいる。きみは、だれだ?」と森はこたえた。

「そいつはにせものだよ。ぼくが、本物なんだ」

「きみは、わたしを殺すことのできる唯一の生き物を知っているかい?」と森はきいた。

 それは、なぞなぞではなさそうだった。ローセムはその答を知っていた。自分がその生き物たちの一人だということも。それで、ローセムは言葉が出てこなかった。

「その生き物の中には、わたしのことを分かってくれる者もある。ローセムは、わたしを持ち上げたけれど、そのままどこかへ放り投げはしなかった。ローセムは、ネズミにわたしが必要だということも、わたしにネズミが必要だということも分かっていた。だからわたしは、ローセムを自分の中に入れた」と森は言った。

 森が自分のことをにせものだと、むしろ悪い人間なのだと思いこんでいると気づいて、ローセムは涙をこぼした。

「こんなにもぼくは、森が好きなのに!」とさけんだ。

 

 

「おとうさんも、森が好きだよ」とローセムのお父さんが静かに言った。

 ローセムはベッドの上で泣いていた。朝日が昇ったばかりで、部屋は明るく、きらきらしたほこりが舞っていた。

「ぼく、夢を見ていたんだ」とローセムは言った。

「一晩じゅう、笑ったり泣いたりを繰り返していたね」とお父さんは言って、ローセムのおでこに手をあて「熱は下がったみたいだな」とにっこり笑った。

「どんな夢だったか、もう覚えていないや。なんで夢って目がさめるとすぐに消えてなくなるの?」

「すぐになくならないと、夢と本当の区別がつかなくなるからね」と言って、お父さんはおかゆをローセムの口に運んだ。

 ローセムは茶わんいっぱいぶんのおかゆをきれいに食べ終えると、また眠くなってきた。

「もう少し寝てていい?」とローセムはきいた。

「好きなだけ寝ていればいいんだよ。眠るのがいやになったら、体はかってに起きるんだから」とお父さんは言った。

 うとうとし始めると、さっきまで見ていた夢をところどころ思い出した。すっかり眠ってしまう前に、ローセムはお父さんにきいた。

「ローセムってどういう意味?」

「光、という意味だよ」とお父さんはこたえた。

 

 

「夢を見ていたみたいだね」と「あの」ローセムが言った。

「あれ? ここは、森の中なの? ぼく、入れたんだ!」とローセムはこたえた。

「森は疑ぐり深いんだ。これまで、たくさんの仲間を失っているからね」

 ローセムは起き上がって、体にかかっていた落ち葉をはらいながらきいた。 

「きみにも、お父さんがいる?」

「ぼくには、家族がいない」とそのローセムは悲しそうに言った。

「でも、きみには森がいるね」

「きみにも、森がいる。そして、ぼくにはきみもいる。きみにぼくはいる?」

「もちろん!」と言ってローセムは笑った。

「じゃあ、いっしょに森で遊ぼう!」と言って、そのローセムは立ち上がった。木洩れ日がその髪をまぶしく照らしていた。ローセムの頬も、光をうけて輝いていた。どちらが本物で、どちらがにせものなのかは、もうどうでもいいことだった。

「ねえ」とローセムは言った。

「ローセムっていうのは、光っていう意味だよ」

「知っているさ」とそのローセムはこたえた。「だから森は、ぼくらのことが好きなんだ!」

 そして二人は、落ち葉が積もったやわらかい地面を蹴って、森の奥へ、奥へと駆けていった。

 

 

©新貝直人