口裂け女の夜

 塾からの帰り、人気のない夜道を歩きながら、少年は口裂け女のことを考えていた。その女はマスクをしていて「私、きれい?」と訊く。きれいだと答えると「これでも?」と言ってマスクを取る。すると、その口が耳まで裂けている。
 少年にとって、これは怪談ではない。一個の大きな問いなのだ。彼女の二度目の問いに、どう答えるべきか。自分に正直に、きれいじゃない、と言うべきか、自分に嘘をついて、きれいだと答えるべきか。
 商店街の外れまで来たときに、少年は公園にいる野良猫を見つけた。猫は、そうするのが当たり前のような顔つきで、目を細めて公園のベンチの中央に座っていた。それが可笑しくて、彼はそっと隣のベンチに座って、猫の横顔を眺めた。猫の目は、夜の暗さで黒目がまん丸になっていた。その黒地にひとつのきらめく星があって、それは街の灯りを反射した光なのだった。少年はだんだん見ているだけでは物足りなくなって、ゆっくり猫に近づいて行った。猫は逃げずに、ベンチに座ったまま、顔をすっと少年のほうに向けた。まん丸な可愛い目は一つきりだった。その対の左目のあるはずの場所は暗い穴ぼこだった。猫は片目だったのだ。
 そのとき、公園の横の細道を酔った男女が通りかかった。女がベンチのほうを見て「あ、猫だ」と言った。男が「猫? この辺は猫が多いのか?」と訊いた。「多いの。餌をあげてる人がいるみたい」と女が答えると、男は「そいつはいいや。前から猫を殺してみたいと思ってたんだ」と言った。女は笑わなかった。男はその沈黙を補うように倍の声で笑った。
 男と女が通り過ぎるのを、少年は身を縮めて待った。そして彼らの気配がなくなると、手を差し伸べて猫をそっと撫でた。猫はそれをうるさがって小さく鳴き、ベンチから降りてその下に身を隠したけれど、それ以上は逃げなかった。少年は、猫を運ぶ段ボールをもらうために、近くのコンビニエンス・ストアに急いで入って行った。
 少年の両親は、自分の子供が家族と見なした小動物を、同じように家族の一員として受け容れた。少年は猫についてたくさんの本を読んで学び、すっかり猫の扱いにも長けて、猫のことならたいていのことは答えられるようになったけれど、口裂け女の問いにどんな返事をしたらいいのかは、まだ答えが見つからない。

©新貝直人