静かな夜

 きっとひどい顔になっているだろうと女は思った。
 それでも、街で横を過ぎる人たちのほとんどは、彼女に注意を払わなかった。一人だけ、中年の男が、事情を察して哀れむような、それでいて関わり合いにはなるまいとするような表情を見せて、素早く目をそらした。
 女の顔は殴られて腫れていた。彼女は前髪が街路灯をさえぎってできる影をあてにしながら、夜の街を歩き続けた。
 どこにも行くところがない、と女は考えていた。お金を持って逃げるべきだった、と。
 夫の暴力は二度目だった。しかし、二度でもう十分だった。最初にふるわれた暴力を、決して謝らなかった夫を、許すべきではなかったと彼女は自分を恨んだ。それをためらったのは、幼い頃から成人するまで日常的にふるわれた母の暴力を許さなかったことが、生家との離縁につながったとする反省があったからだった。父は、母の行為に加担することはなかったけれど、止めることもしなかった。殴られる娘を見る目つきは、今すれ違った中年の男に通じるものがあった。
 女は繁華街を抜けて、見知らぬ住宅街にたどり着いた。静かな夜だった。ひと気のない月極駐車場の、コンクリート・ブロックの車止めに彼女は腰掛けた。一匹の野良猫が彼女に近寄りかけて、餌やりではないと分かると踵を返した。猫も怪我をしていた。耳の横の皮が剥けて、血がにじんでいた。
 逃げなくてもいいのに、と彼女は思った。動物は人間の善し悪しを見抜ける、なんて嘘だ。私は絶対に、小さな動物にだって、暴力はふるわないのに。
 女はまた繁華街に戻って行った。まわりが騒々しいほうが、痛みを忘れられるような気がしたのだ。しかし、どこまで行っても顔は痛み続けた。まぶたはますます重くなって、視界を狭くした。
 誰かが助けてくれることを期待しているのだろうか、と彼女は考えた。たぶん、そうだ。その証拠に、私は街を歩いている。でも、そうじゃない。その証拠に、私は顔を伏せている。
 女は自分の望みをはっきりさせることができなかった。しかし「それ」が来たときに、彼女には分かった。自分が望んでいること、少なくともそれは、他人による救済ではなかった。
 夫は、彼女の歩みに併せてゆっくりと車を横に走らせた。その後ろに続くタクシーが苛立たしげにクラクションを鳴らしていた。

 もう二度と殴らないで、と彼女は言えなかった。夫のほうも、もう二度と殴らない、と言わなかった。無言が支配する車内で、女は泣き、夫はラジオの音量を上げた。ディスク・ジョッキーの声が大きくなるほど、夜が静まっていくように女は感じた。

©新貝直人