「なぐる愛」はあるのか

親が子をなぐる。兄が弟をなぐる。夫が妻をなぐる。先生が生徒をなぐる。監督が選手をなぐる。上司が部下をなぐる。と、この国には、実に多くの「なぐる」があります。これらは「体罰」と言って、なぐるほうは「愛」ゆえにそうするのだそうです。なぐる愛はなぐられた人に「伝わる」でしょうか。それは、伝わるのです。ただし、愛が伝わるのではありません。なぐる行為が伝わるのです。

毎日のようになぐられると人はどうなるか。愛でいっぱいに満たされた人になるでしょうか。ならないのです。代わりに「怒り」でいっぱいの人になります。しかし、この怒りは本人が自覚できないことが多い。なぜなら、なぐられ続けることで痛みに慣れてしまうからです。自分の痛みに慣れた人は、他人の痛みにも鈍感になります。そうしていざ自分が強者になると、弱い他人をなぐるようになります。なぐられることで人が学ぶのは「なぐる権利」です。強い人は、弱い人をなぐる権利がある。正しい人は、間違っている人をなぐる権利がある。そう思い込むのです。

ある親が子をなぐって育てたとします。親は、人として正しく育ってもらいたいからなぐった、と言うでしょう。子供は判断力が十分ではありませんから、これは一見正しいように見えるかもしれません。それでは、その親が年老いたとします。老いによって判断力を失うとします。そのとき、子は「愛ゆえに」老いた親をなぐるべきでしょうか。どこかへふらふらと徘徊しないように、なぐって危険を覚えさせるべきでしょうか。なぐるのが愛で、正しいのなら、当然そうすべきでしょう。

なぐることが愛ならば、愛された人はすべてなぐられているはずです。ところで、僕の身近にいるもっとも非暴力的な人、なぐったりなぐられたりとはおよそ縁のない人は妻です。彼女は、親になぐられたことがない、と言います。だから、人が人をなぐることが「信じられない」のだそうです。彼女は生家との結びつきがとても強い。生家がトラブルに見舞われると、みんなで心配し合い、助け合おうとする。長年、彼女とつき合っていくなかで、はからずも僕はじぶんの心の奥底に「怒り」が満ちていることに気づきました。それが、誰に由来するのかも。

ところで、ある犯罪者にとって一番重い罰とはなんでしょう。死刑、という人が多いのではないでしょうか。しかし、僕は違う見方をします。犯罪者にとって一番重い罰は「悔恨」なのです。それでは、人を悔恨させられるものとは何でしょう。量刑でしょうか。しかし、僕から見れば、量刑というのは「なぐる」力加減にすぎません。なぐる行為に愛がないのと同様に、量刑にも愛はありません。だから、多くの犯罪者は改悛しないのです。

悔恨は、誰かに愛されることでしか生まれない。と、僕は考えます。その愛とは、もちろん「なぐる」とは無縁の愛です。どんな場面であっても「なぐる」というのはただの暴力で、それ以上に意味深なことなどひとつもありません。人をなぐる心には、積もり積もった怒りと、それを抑えられない衝動があるばかりなのです。僕はときに、どうしたら戦争をなくせるか、というようなことを考えますが、ひょっとしたら、世界中のすべての親が子をなぐらなくなれば戦争はなくなるのではないか、と思うのです。あなたが、あなたの子をなぐならければ、と。