僕と猫

 それは、僕が小学校低学年のころの、冬の出来事である。僕はひとつ下の弟を連れて、同学年の友達二、三人とだだっ広い空き地で遊んでいた。国際空港などなかった頃の愛知県の片田舎である。ところどころの水たまりには氷が張り、枯れ草の上を残雪がまだらに覆っていた。空はうすぼんやりと曇っていて、太陽が覗く気配はまるでなかった。僕らは、がれきや枯れ草を集めておのおの基地を作り、雪玉や石を投げて友達の陣地を攻撃しては、はしゃいでいた。

 友達の誰かが、突然一匹の野良猫を拾ってきた。まだ乳離れしたかどうかの子猫である。僕らは休戦し、元々はそうであったかのように優しい心持ちを見せて、順に抱きかかえ、代わるがわる撫でた。僕の番がきて、子猫を抱くと、猫はセーターに鋭く爪を立てた。猫を引きはがすと、セーターの毛糸の編み目がほつれて長く伸びた。みんなが笑い、僕は猫に恥をかかされたと思った。

 僕は戦闘状態に戻り、唐突に、子猫の上官らしくふるまって言った。「この猫は、特訓しないとな!」みんなは「特訓」という言葉に素早く反応した。それは、何か大きな目標を達成するために、漫画の主人公に課せられる試練を指す言葉だった。同時に、弱い者を良心の呵責なくいじめるための言葉でもあった。

 冬の原っぱの荒涼とした風景は、いかにも「特訓」にふさわしい場所のように見えた。僕は子猫を抱えて、直径十メートルはありそうな大きな水たまりへ向かった。水たまりの表面には、子供たちが石を投げて砕いた、大きな氷片がところどころ浮かんでいた。

 僕は、子猫の冒険物語を思いついていた。特訓を乗り越えて、たくましく、強い、大人の猫になる物語。最初は憎んでいた人間のことを、後に感謝するようになる、そのような物語。

 厚い氷を選んで引き寄せ、そこに子猫を乗せると、僕はためらいもなく、水たまりの中央へと押しやった。氷はボート、猫は冒険家、という具合である。しかし、子猫はたいして動じなかった。ただ不安げに水面を覗き見るばかりである。これでは、とても冒険している姿とは言えない。僕は演出を加えようと思った。

 大きめな石を地面から拾い上げると、子猫の乗っている氷のまわりに投げて、どぼんと水面を揺らした。子猫に石が当たらないようには気をつけた。しかし、声は威勢よく叫んでいた。「嵐だぞ!」友達もすぐに真似し始めた。氷片の散乱する水面が海のように波打ち、しぶきを上げているさまに、僕らは興奮した。

 猫が鳴き始め、それでもみんなの熱中が収まらないのを見ると、僕は急にこの物語を打ち切りたくなってきた。対岸に着くまで、と僕は思った。波に押されて、対岸まで着いたら、僕は駆け寄って猫を抱き上げ、冒険を褒めたたえる。そういう結末が待っているはずだった。

 そうはならなかった。子猫は逃げようとして、氷の浮かぶ冷たい水のなかに飛び込んだのだ。笑いがやんだ。僕は猫の泳いでいく岸へ先回りをし、冷たい水たまりのなかから子猫を拾い上げた。そして、空き地から一番近い「つっくんの家へ行こう!」と言って、走り出した。

 つっくんの家へ着くと、すぐに乾いたタオルで子猫を拭いた。ヘアドライヤーで猫に温風を当て、体をさすった。僕らはみな、悄然として口数が少なかった。猫はなかなか乾かない。ヘアドライヤーの音は大きく、大人たちに気づかれるのではないかと、僕らを焦らせた。小さな箱にタオルを敷いて、そのなかに生乾きの猫を寝かせた。

 猫をどうするか、考えなければならなかった。飼うという発想は誰にもなかった。猫を飼うのはお金持ちだけで、そういう猫は血統書があるものだと思い込んでいた。まして、野良猫を拾って飼うという事例を、僕らの誰一人として知らなかった。

 どこかに隠して、元気になるまで給食の残りでもやれば、そのうち生まれた場所に戻るか、どこかへ旅に出るかするだろう。僕はそんなふうに考え、つっくんの向かいの家のガレージの棚に猫を隠すことを提案した。そのガレージはいつも開け放たれていて、僕らはよく忍び込んだ。厚いコンクリート造りで、奥のほうは冬でも暖かいと知っていた。

 子猫の入った箱はガレージの棚に置かれた。僕らはみな後ろ髪を引かれるようにして、それぞれみじめな家路に着いた。

 翌日、学校へ着くとすぐつっくんが寄って来て、奇妙にまじめな顔をして言った。「猫、死んでたぞ」僕は立ち尽くした。血の気が引く、という感覚を初めておぼえた。本当にそれは、風呂の栓を抜いたときの水のように、全身の血が、頭からくるぶしに達するまで水平に下がっていく感覚だった。

 僕らは、二度とあの出来事について語らなかった。今でも、つっくんが僕を困らせるためにかついだのだと、そう白状してくれないかと思う時がある。彼は、僕がげんこつを振り上げただけで殴られたとカウントし、倍にして返したとでっち上げて、自分の武勇伝に加えるといった性格なのである。本当はどこかに逃げちゃってたんだろ? 想像のなかで、僕は何度も、彼にそう問いただした。しかし、現実にそれを口にすることはなかった。

 

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 それから三十数年後、東京のある冬の夜、僕はスーパーで猫の餌とトイレの砂を買ってリュックに入れ、若い男性の店員さんに声をかけて段ボール箱をもらっていた。そのとき、なぜだか彼は、僕の目的を知っているかのような真剣なまなざしを見せた。スーパーのテーブルを借りて、段ボールの底を二重にして組み立て、ガムテープで補強した。そして、裏手にある駐輪場へ戻った。

 猫を抱き上げると、拍子抜けするほど軽かった。文字通り骨と皮だったのだ。彼は小さく鳴いて、控えめな抵抗を見せたけれど、四肢にはまるで力が入らないようだった。段ボールに入れて、落ち着くまで待とうとしたら、力を振り絞って段ボールから這い出て、また汚れた毛布の上にぐったりと寝そべった。「暖かいところに行こうよ」と声をかけて、もう一度段ボールに入れたけれど、同じことを繰り返した。そこで僕は、彼を左腕で抱え、右手で毛布を拾い上げて段ボール箱の底に敷き、その上に彼を置いた。

 小さな、汚れたものであっても、毛布がそこにあったのは幸いだった。僕は、路上に放置されていたその毛布をいただくことにした。彼は罠にはめられたような、それでいながら納得しているような顔つきをして、段ボールの底で丸まった。僕は上蓋を途中まで閉め、しかし密閉はせずに、数センチだけ隙き間が空くように両の親指を立てて押さえ、上蓋を固定した。猫の視界に僕が入るように配慮したのだ。

 アパートに連れて帰る道すがら、四、五匹の野良猫と会った。零時前の冬の夜に野良猫に出会う確率は低い。しかもその道順は、昼間でも野良猫に会うのは稀なコースなのである。不思議だった。まるで野良猫たちが、路上を去る仲間に別れを言いに来たような、あるいは自分たちも連れて行ってくれと要求しているような感じがした。

 アパートに着くと、他の部屋の住人に出くわさないよう祈りながら階段を上った。そのアパートは、ペットの飼育を禁止していたのだ。部屋に無事着くと、猫の鳴き声は絶え間がなくなった。落ち着かせようと床に下ろし、自由にしてみた。彼は黙り、ぐるりとアパートの居間から、廊下、寝室を、ふらふらした足取りで歩いた。僕は彼のあとについて、よだれを拭いて回らなければならなかった。彼の口は重度の歯槽膿漏で、もう何ヵ月もふさがらない状態だったのだ。

 居間には小ぶりなケージがあって、なかには密かに飼っていたうさぎがいた。彼女は猫には気をとめていないようだった。うさぎと猫の相性の懸念はなさそうだと思い、僕は帰り道で考えたことを実行しようと、猫を抱き上げた。

 猫を抱えて浴室に入った。そして、温水のシャワーで彼を洗った。彼は何度か僕の手から逃れて、狭い浴室の風呂蓋の上を右往左往したりしたけれど、総じて我慢してくれた。人に体を洗われるのが初めてじゃないような感じさえした。それでも、ひっきりなしに鳴くのは止められなかった。

 汚れはひどいものだった。石けんの泡は瞬く間に墨汁のような色になって、汚れに吸い取られて洗浄力を失った。とくに尻尾からは、コールタールのようにどす黒い液体が流れ出し、一度の入浴で完全にきれいにするのは無理だと悟った。

 浴室は獣のにおいと黒い汚水ですっかり様変わりした。はたして人が再びこの場所でくつろぐ日がくるのだろうか、といぶからずにはいられなかった。いくら洗ってもきりがなく、彼の体力が心配になった僕はシャワーを止めた。彼はぶるるっと身震いして水滴を飛ばし、僕の顔に飛び散ったその水滴は、やはりまだ黒っぽくにごっていた。

 脱衣所に移動させ、バスタオルにくるんで濡れた毛を拭いた。それから、ドライヤーの温風を当てた。洗ったばかりだというのに、ことさらに強烈なにおいが脱衣所に充満した。健康な猫には体臭がない。猫は獲物にさとられないよう体臭を消す動物である。そのにおいは、病気になったまま治療を受けられず、それでも路上で暮らすしかない猫の惨状そのものだった。それは、獣のにおいであるのと同時に、鼻の奥につんとくる金属のようなにおいだった。

 そのとき、居間から凄まじい物音が聞こえた。僕は乾ききらない猫をそこに残して居間に向かわなかればならなかった。僕の想像した以上の悪いシナリオが進行していた。

 ケージがそのたびに十数センチも動いてしまうほど、中のうさぎが狂ったように跳ねまわり、激しくタン、タンと警戒の足踏みをしていた。猫を乾かすときの強烈なにおいがリビングまで届いたのだ。そのにおいが、うさぎをパニック状態にした。

 うさぎと猫がうまくいくかどうかは未知数だったけれど、これほどの拒絶反応は予想を超えていた。彼女はこれまで飼育したなかで三匹目のうさぎだったけれど、うさぎと猫の相性については、最初に買ったうさぎで確認したことがあったのだ。

 以前、親とはぐれて泣き叫んでいる子猫を繁華街の路上で拾って、里親さんが見つかるまで、しばらくうさぎと同居させていたことがあった。彼らはとても仲が良く、お互いを気づかい合うよう一緒に遊んだ。もっともそのときには、子猫は乳離れができていないのではないかというほど小さかったのだけれど、そのうさぎは、風邪をひいた野良の成猫を部屋に入れたときにも、鼻づらを合わせて挨拶し、まるで動じなかったのだ。

 僕はうさぎを落ち着かせるために、ケージの扉を開けた。ケージの前にはラグが敷いてあって、そこが彼女の縄張りだ。いつもならラグの周辺で跳ねたり、穴堀りのまねごとができる使い古しのカーテンを掻き込んだり、そこに潜ったりして遊ぶのだ。

 しかし、彼女のパニックは収まらなかった。それどころではなかった。猪突猛進、一気に隣室のベッドルームの端まで走りきると、急転回して、またこちらに必死の形相で全速力で駆けてきたのである。

 そのときの記憶を、僕は映像がスロー再生されるように覚えている。うさぎの骨は、速く走ることの代償として、軽く、もろくできている。もし僕がうさぎを抱き止めることに失敗したら、彼女は背後の金属ラックに衝突して死んでしまうかもしれない。僕は集中力を発揮して、素早く横を駆け抜けようとする彼女の体を両手でキャッチしていた。彼女は鋭い叫び声を上げた。

 うさぎは基本的に鳴かない動物である。爪切りのときなどに興奮して声を出すことがあるけれど、いかにも小動物らしいふぐふぐとくぐもった声である。しかしそのときの彼女の声は、屠殺されるときの家畜を思わせた。うさぎとは思えない金切り声である。それと同じうさぎの声を、僕はかつて一度だけ聞いたことがあった。それは二匹目に飼っていた、やはり牝のうさぎが急病で亡くなる寸前に上げた断末魔だった。

 僕はうさぎを抱きしめて、死ぬな、と祈った。野生において補食されることの多いうさぎは、苦しまないよう軽いショックでも死ぬことがある。このとき初めて、僕は猫を拾ったことを後悔した。うさぎは里親になって譲り受けた子だった。うちに来たときにはあんまり小さかったから、僕は雌雄の判定を間違え、彼女をイタリア語の男性名詞でプントと名付けてしまった。そして過去の二匹よりもうんと甘やかして育てた。それは急死した二匹目のうさぎと、彼女がよく似ていたという事情もあった。膝の上で爪切りができないのは、三匹の中で彼女だけである。

 プントは、僕に抱きとめられて動きを封じ込まれると、もう逃れようとはしなくなった。心臓がドラム・ロールのように細かく速く拍動していた。目は大きく見開かれて、涙が溜まっていた。僕は自分がまだ獣のにおいを発散させていることに気づいて、彼女をそっとケージに戻した。うさぎはひと通り跳ね回ってから、ケージの隅に身を縮め、さっきよりは小さく後ろ脚をタン、タンと鳴らし続けた。その悲しい音を背後に、僕は自分が再開しなければならないことをした。脱衣所で、瀕死の猫がまだ濡れたままなのだ。

 ドライヤーの風がリビングへ流れ込まないよう、浴室側が風上になるように猫に当てた。僕のお気に入りだったバスタオルは、猫の下で抜け毛と汚水にまみれ、もう捨てるしかない有様になっていた。僕は憔悴しきっていたけれど、考えなければならないことが山積していた。

 猫の居場所について、僕はできればそうしたくなかったことをすることにした。リビングとそれに隣接する寝室以外に、アパートにはもうひとつ部屋がある。仕事部屋である。そこには、仕事で使うマッキントッシュとカラーレーザープリンター、業務用ファックスなどの精密機械が置かれている。この部屋の半分を、猫部屋にするのだ。うさぎと仲良く同居という夢は破れてしまった。リビングと仕事部屋はちょっとした廊下で隔てられており、都合二枚の扉を閉めることができる。

 猫を仕事部屋におく。それはすぐに決まったけれど、当面どう飼育するかが問題だった。餌とトイレの砂は買ったけれど、トイレそのものがない。ケージすらない。衝動にまかせて拾ってしまったので、事前準備がなにもできていないのである。少なくとも、トイレとケージを入手しなければならない。僕はすっかり乾いた猫を脱衣所に閉じ込めて、うさぎのケージには厚く重ねた布を被せてから、また夜の街に戻った。

 すでに二十二時を回っていた。近所のペット・ショップを二軒回ったけれど、当然店は閉まっていた。そのうちの一軒には灯りがあったので、戸を叩いて「ごめんください」と声を張り上げたけれど、中からは怪しんだ犬の吠え声しか返ってこなかった。

 人が両手で抱えられるくらいの段ボール箱のなかに、いくら病気とはいえ、成猫を一晩入れておくのは気の毒に思えた。あんな小さい段ボールなんかに、と僕は思った。そのとき、どうしてこんなことを考えつかなかったのだろう、という考えが急にひらめいた。トイレもケージも、段ボールで自作すればいいじゃないか。

 今度は、先ほどとは別の、自宅から最寄りのスーパーで段ボールをもらうことにした。段ボールの整理をしていた若い男性に声をかけると「いいけど、散らかさないで」とめんどくさそうに言われた。僕は両手で運べる精一杯の量の手頃な段ボールを抜き取ると、残りはむしろ以前よりもバランスよくきれいに積み上げ直してから立ち去った。

 天気予報は正確で、雨が降り始めていた。雪にならないのが不思議なほど、冷たい雨だった。猫をあのまま置き去りにしていたら、やはり生き延びられなかったに違いない。僕は彼が気がかりで、毎日天気予報をチェックしていた。それでも、してあげられることはないんだ、ごめん、と僕は思っていた。うさぎならこっそり飼うことができても、猫は無理だと。晴れ続きだった天気予報が変わり、雪か雨が降ると告げた。僕は、猫がどこかへ避難していることを期待して出かけた。しかし、猫はそこに横たわったままだった。

 そのとき僕は、じぶんが「あれから」どんな大人になったのか、と自問した。死にかけた猫も救えない、そんな大人になったのかと。僕はもう迷わなかった。猫を見捨てる、という選択肢は吹き飛んでいた。

 仕事部屋の作業テーブルを折りたたみ、業務用ファックスの向きを変えると、大人が一人丸まって寝られる程度の空間ができた。そこに、小一時間ほどかかって作った段ボール製のケージとトイレを置いた。印刷の少ない無地に近いものを選んだので、見栄えも思ったほど悪くはならなかった。

 ケージは腰の高さほどで、病に伏している猫は逃げ出せないはずだが、念のため自宅にあった半透明の大きなアクリル板を蓋代わりに上に置いた。猫の様子が上から見られるので都合がよかった。底冷えしないように厚めに段ボールを底全体に敷き、寝床には厚手のバスマットを敷いた。トイレにはごみ袋をかぶせてから砂を敷きつめた。

 猫を段ボール製のケージに入れると、ぐったりとまた横になった。舌は飛び出たままで、あごは早くもよだれまみれだった。シャワーとドライヤーで毛並みは一見だいぶ良くなったように見えた。しっぽにきれいな虎縞があることを初めて知った。けれどよくよく調べると、あちこちの毛の根元のほうはダマになった小麦粉みたいに固まっていて、それを指でほぐすと金属臭のする白い粉が舞った。

 陶器の皿に、水と猫の餌を入れて、そばに置いた。猫は生タイプの餌に顔を向けたけれど、上っ面をなめただけで食べなかった。その代わりに、水はかなり飲んだ。浄水器を通したきれいな水である。これまで、路上でどんな水を飲まなければならなかったのだろう、と考えずにはいられない。水を飲んでくれたことで、生きられるのではないか、という希望が湧いた。「明日はお医者さんに行こうな」と話しかけた。猫は水を飲むのに忙しくて、返事をしなかった。

 残業でいつもより帰りの遅くなった妻から、帰宅のメールが届いた。家事分担で、いつもは僕が食事を作ることになっている。しかしその夜は、コンビニでサンドイッチか何か買って来てほしい、と頼んだ。残業を終えて家に帰ったら、死にかけた野良猫がいる、という状況を申し訳なく思った。おまけに彼女が可愛がっているうさぎは、布を掛けられた薄暗いケージのなかで、恐怖と怒りで縮こまっているのだ。

 妻が帰宅すると「まず謝ることがあります」と僕は言った。僕らはときに芝居じみて、妙にかしこまった言葉づかいをする。そして仕事部屋に彼女をうながした。彼女が驚いたのかどうか、実のところよく分からない。段ボールのなかを覗きながら、別段変わった表情は見せなかった。あれ、どういうわけか猫がいるんですけど、みたいな感じで、僕は拍子抜けした。

 十九年も一緒に暮らしてきて、さすがに僕のしでかすことには察しがつくのだろう。「きみも知っているはずの猫だよ」と言っても「あ、そうなの? どこの猫ちゃんだろう」と首をかしげている。それから僕は、手短かに事情を説明したような気がする。気がするというのは、疲れていたせいかこの後のやりとりをあまり覚えていないのだ。後から聞いたところによると、いつも僕が野良猫のことを気にかけてばかりいるので、いずれこういう日が来るんじゃないか、と思っていたらしい。

 それから僕は猫のいる部屋でサンドイッチを食べ、彼女にはうさぎをケアしてもらった。食べ終えると、僕は重い体を引きずるように浴室に行き、その日の仕上げの大掃除を開始した。

 翌朝、おそるおそる覗くと猫は眠っていて、そのおなかが呼吸に従って上下していた。ああ、良かった、生きている、と思った。トイレに尿のあとがあるのがうれしかった。猫はこんな状態でも力を振り絞ってトイレはトイレで済ます、清潔好きでかしこい動物なのである。しかし、生タイプの餌は手つかずで、端から乾燥しかけてそのまま残っていた。

 どこの獣医さんに診てもらうかはもう決めていた。過去三匹のうちのうさぎたちのかかりつけ医にお願いしようと思っていたのだ。診てもらうのは猫だけれど、飼育環境からうさぎにも詳しい獣医さんのほうがいい。先生はとても熱い人で、野良猫でも差別なく扱ってくれるという確信もあった。ただ問題なのは、そこは電車に乗らなければ行けない場所なのである。段ボール箱に猫を入れて電車に乗ることはできないので、キャリー・バッグが必要だった。

 一刻も早く診てもらいたいという気持ちはあったけれど、病院は午後に行くことにして、朝一番で僕はキャリー・バッグを買いにペットショップへ向かった。昨晩から続く雨が降っていた。二月の終わりの冷たい雨である。

 ペット・ショップを二軒回って、キャリー・バッグを入手した。なぜ二軒回ったかというと、一軒目にあったのはいかにもペット向けという、人目を引くデザインのものばかりだったからである。ペットの飼育を禁止しているアパートでは、とても持ち歩けない。二軒目で、緑がかったグレーの地味なキャリー・バッグを買って、帰宅するとすぐ、生地色にそぐわない派手派手しいピンクのロゴ・マークを切り取った。

 寝ている猫を持ち上げて、キャリー・バッグに入れた。抵抗する力はまるでないようだった。それでも外へ出ると、最寄りの駅へ向かうまで、ひんぱんにミャアミャアかすれ声で鳴いた。また路上に戻されると思ったのだろうか。「大丈夫、きみを路上には戻さない。これから行くのは、お医者さんのところだよ」と声をかけた。「面白い先生なんだ。声がやたら大きいからびっくりするかもね」

 猫は鳴きやまず、プラット・ホームに入ってからも、通行人を何人も振り向かせた。車内で過ごさなければならない数十分が思いやられた。ところが、いざ電車に乗ったら急に静かになった。電車が好きなのかと思ったけれど、そうではないことが後に分かった。通院するようになってからは、必ず車内で鳴いて僕を困らせることになるのだから。そのときはただ、鳴き続ける体力が尽きたのだった。

 下り電車で、まだ午後になったばかりということもあって空いていた。シートの端に座っていると、途中駅で乗り込んできた高校生のカップルが対面に座り、人目はばかることなく恋愛の作法を始めた。彼らには、目の前の中年男も、彼が抱えている瀕死の猫の入ったキャリー・バッグも目に入らない。

 生と死の対比。奇妙な感慨が湧いた。中年の僕はなぜだか、短いスカートをはいた恋人とではなく、ぼろぼろの猫と一緒にいるのを楽しく思ったのだ。猫はたびたびもそもそ動いたけれど、駅に着くまでついに一度も鳴かなかった。駅から五分のところに、病院はある。

 診察室でキャリー・バッグから猫を出すと、獣医さんは「あれ、子猫じゃないんですね?!」と驚いた。電話で事情を説明したときに、動けなくなっている野良猫を拾ったので診て欲しい、と伝えただけで成猫とは言っていなかった。大人の野良猫を拾って動物病院に連れてくる、というのは珍しいことなのだろう。

「むしろ高齢だと思うんですが。いくつくらいでしょう」と僕は訊いてみた。「うーん、十歳は超えているかも」と先生は答えた。それから彼を見回し「虚勢されているオスですね」と言った。その耳に、さくら耳と呼ばれる愛護団体によって去勢された野良猫の印はない。彼は、やはり以前は飼い猫で、その後に棄てられたのだと僕は考えた。

 獣医さんは「きみは検査すればするほど、いろいろ出てきそうだね!」と猫に笑いかけた。照明のひときわ明るい、清潔な診察室では、外見のひどさがあからさまだったのだ。やせ細った背からは、背骨がアーチ状に浮き出ていた。毛並みはそこらじゅうダマになってもつれていて、ばさばさ。目には真っ黒い目やにがこびりついていてほとんど開かない。下顎は腫れて変形していて、よだれが絶え間なく、舌は飛び出したままである。後ろ脚の裏は固いアスファルトの上で長年過ごしたせいで両方とも禿げていた。僕は、これでも昨夜石けんで洗ったばかりなんですが、と言い訳しそうになった。

 体重を測ると、三キログラムしかなかった。心配していた顎の骨折はないということで、とりあえず僕は、以前、近所にある別の動物病院に相談したときの「顎の骨折の場合、その手術費だけで二十万円を超える」という事態にならなかったことに安堵した。そのとき僕は、怪我だけ治してあげて、また路上に戻す、という計画を考えていたのだ。しかし、その甘い考えは、提示された治療費の前に消えた。

「これから血液検査をします」と獣医さんは言って、助手さんに手伝ってもらいながら採血をした。検査のあいだ中、僕の脳裏には、猫エイズ、猫白血病、癌、などの言葉が渦巻いていた。それらの治療にいったいどれほどの費用がかかるのかは、想像もつかない。僕は自分の経済力の範囲を憂いていた。それが拾った猫に与えられる僕の愛情のリミットである。

 具体的に言えば、僕は二十万円を全治療費の上限と考えていた。それ以上になると、借金をしなければならない。ただでさえ不安定な自営業者であり、さらに僕の職業の柱である出版業界は、インターネットに追いやられて今や斜陽産業になりつつあるのである。こんな僕に拾われて、ごめん。僕は心の中で謝った。猫が返事をするとしたら、嫌にゃ、何とかしろ、と言うだろう。

 検査結果の用紙を携えて、獣医さんが戻って来た。その結果はやはり好ましいものではなかった。まず、白血球の数が異常に多かった。感染症にかかっていて、体がそれに抵抗するために炎症を起こしているのである。それで倦怠感があって、ぐったりしているのだ。次に、赤血球の数が異常に少ない。これは貧血状態であるということ。そして、決定的だったのが腎臓の数値である。もうすでに、彼の腎臓の七十五%は機能していない。いわゆる慢性腎臓病、ひと昔前でいう腎不全で、それが原因で脱水症状を起こしているのである。

 昨夜、猫が夢中になって水を飲み続けた姿がよみがえった。それは摂っても摂っても足りなくなる水分を補給するためのものだったのだ。そしてこの病気は、人間ならば人工透析という治療があるけれど、猫にとっては不治で、食餌療法で機能している残りの腎臓をケアしていくことしかできない。それでも数年で腎臓の機能はすべて失われ、そうすると毒素を排出できないため死にいたる、ということだった。

「よだれはどういう原因なのでしょう」と、僕は冷静を装って訊いた。「おそらく、歯ぐきなどで病原菌が巣くっているところがあって、そのせいで口中が炎症を起こしているのだと思います」と獣医さんは答え「治すためには抜歯が必要で、場合によっては全ての歯を抜かなければならないかもしれません。しかし今は抜歯の手術ができる状態ではないので、先に抗生物質と輸液を一晩かけて点滴することになります」と続けた。

 そうして猫は入院することになった。飼育が始まって一日も経たないうちに別居である。しかし正直に言えば、僕は帰り道で解放感も感じたのだった。たぶんそれは、昨夜には自分と妻の二人で背負っていた命という荷を、獣医さんとも分かち合うことができたからだろう。それに、入院している間に本物のゲージとトイレを用意することもできる。そういえば僕はまだ、猫に名前もつけていなかった。病院のカルテは「ノラちゃん」になっている。

 僕は猫に「ミー太」という名前をつけた。彼がいつもいたのは、ライフという名のスーパーの従業員用の駐輪場だ。ライフは命という意味で、それをひとひねり、ラテン語にしてヴィータ。ヴィータをさらに日本語の猫語にしてミー太、となった。

 結局、ミー太は総抜歯となった。歯のない猫である。猫は、歯がなくても食べられる。ペットフードであれば。ミー太は、爪切りなど気に食わないことがあると、よく僕を噛んだ。全然痛くないので、好きなだけ噛ませてあげることができた。それでも、その圧力はちょっとしたものだった。さすがは肉食獣である。

 ミー太はさらに追加の検査で、猫エイズであることが発覚した。慢性腎臓病に加えて、猫エイズという二つの不治の病を抱えていたのだ。

 家猫と野良猫の幸福度の違いを、もっとも端的かつ客観的に現すひとつが、血液検査である。かつての僕には直観に頼りがちなところがあり、ずっと野良猫の抱えている問題を過小評価してきた。人に都合のいい物語を、野良猫に背負わせていたのだ。そういう幻想は、科学の光の前に吹き飛んだ。野良猫が、自由で、たくましい、などとはもう絶対に言えない。

 ミー太のために、三階建になっているケージを購入して、仕事部屋に置いた。退院したミー太は、あっという間に家猫になった。ひだまりで眠り、僕や妻の膝の上で眠った。行動範囲に制限はあるけど、三食昼寝付きで、冷暖房完備である。よだれは止まり、舌も引っ込み、声のかすれもなくなった。体重も1キロ増えた。彼が幸福になったことは、なによりその毛並みが示した。僕は猫用のコームで、何日もかけて全身の毛のダマをほぐした。ミー太は毛づくろいの習慣を取り戻した。そうしてすっかり、無臭の猫というわけである。(うんちはくさい)

 耳は薄く、日の光に透けて、微細な赤い血管が走っているのが見えた。彼の耳がさくら耳ではなく、完全な形をしているのに感動せずにはいられない。命はなぜ大切か、という議論がある。その問いには、美しいから、と僕は答えたい。生きているものは機能的にできていて、機能的にできているものはたいてい美しい。

 ミー太の病状は治療後にかなり良化し、そのまま長く平行線となった。腎臓の数値も悪化せず、猫エイズが劇症化することもなかった。

 猫と同居、というか実質的には家庭内別居していたプントが急病で亡くなると、悲しみに暮れながらも、僕と妻は引っ越しを考えるようになった。ペット飼育可のアパートに引っ越したかったし、賃料を少しでも安くしなければならない事情もあった。

 インターネットで賃貸の住居を調べるのは、とても効率がいい。条件を入力すると、たちどころに空室情報が並ぶ。僕はもちろん「ペット可」にチェックを入れる。そして、試しにそのチェックを外してみる。ペット可の賃貸物件は全体の一割程度しかない、という残念な事実をそれで知った。

 ミー太を拾って二年が経った春に、僕らは中野区から杉並区へと引っ越した。かなり手狭になったが、猫は狭いところが嫌いではない。フローリングは無垢材で、その点は以前よりも良くなった。老猫の足腰に優しいのである。ただし、前の住人のペットの残していった尿臭がとれない一角があって、ミー太はそこにだけは近寄らなかった。

 暑い夏を乗り切れたと喜んでいた秋口に、ミー太の食欲が激減していった。多量の唾液を吐き戻す「吐出」の回数も増えた。引越しに伴い、かかりつけの病院が片道一時間を要するようになったので、仕方なく一度、徒歩で行ける近所の病院へ連れて行った。

 診察にしっくりこなかった。これまで処方されていたバソトップという薬を、その獣医さんは知らなかった。「同じ薬はうちでは出せないよ」と言われ、代わりの薬の名を言ったが、それは後で調べてみるとバソトップよりも旧タイプの薬だった。食欲不振が続くのなら、点滴を受けるために「毎日通院することになる」と現実的でないことを言った。

 行なったのは血液検査のみで、しかも採血するのに、猫を飼い主の目の届かない奥の部屋に連れて行った。体温に至っては、僕に指摘されてはじめて「そうだな、計ってみるか」と計測し始めた。腎臓病の薬と称して二種類の薬を出そうとしたので、それはどんな薬か確認すると、医薬品の認可の下りていないサプリメント扱いのもので、僕はより推奨できる一種類だけでいいと言った。

 会計時にカード払いをお願いすると、受付の女性は「お支払いは現金のみ」だと言った。持ち合わせのなかった僕は、猫を置いて近所のコンビニまで行き、現金を下ろしてこなければならなかった。彼女は初診の老猫には目もくれなかったが、常連らしいフレンチブルドッグの仔犬が来ると相好を崩し、カウンターから飛び出して行って抱きかかえた。

 ミー太の食欲はいよいよ細くなり、ある日ついにひと口も食べなかった。その翌日に、電車を乗り継いで約一時間かけて以前のかかりつけの病院まで行った。ミー太には申し訳なかったけれど、輸送のストレスは我慢してもらうことにした。

 改めて血液検査をすると白血球の数値が高く、膵炎の疑いもあることから、そのまま入院して検査を進めると同時に、点滴もしつつ様子を見ることになった。

 翌日に、吐出の仕方から食道拡張症の疑いが強い、と連絡があった。それがどういう病気が知らなかった僕は、治療法を聞いて絶句した。胃に穴を開けてチューブを体の外部に通し、そこからシリンジで強制給餌をするというのだ。いわゆる胃ろう手術が必要なのである。

 バリウムを飲んでレントゲン撮影を行った結果は、黒だった。ミー太の食道は伸びたゴムのように弛緩していて、そのせいで唾液を胃まで嚥下できず、溜め込んでは吐き戻しているのだった。体力の回復を待って、胃ろうチューブ設置の手術をすることになった。

 その日、手術が終わったという連絡があって、面会に駆けつけると、ぐったりしたミー太が、病院の銀色のケージの中で横たわっていた。路上で身動きができなくなっていた時よりも、もっと生気が感じられなかった。全身麻酔の影響が抜けきらず、瞳孔が開いていて、焦点が合わなかった。

 ミー太は僕に気づくと、抗議をするように鳴こうとし、口を開けたけれど、それは声になりきれなくて空気がもれる音がするだけだった。ケージを開けてもらい、ミー太を撫で、写真を一枚撮り「すぐに良くなるよ。そうしたら迎えにくるから」と言って別れた。帰り道で僕は、このままミー太は病院で亡くなるのかなと考えた。手術は彼を最後に苦しめただけかもしれないと。

 手術の翌日に、妻と一緒に再び面会に行った。チューブの設置はうまくいったが、肺炎を起こしていると告げられた。さらにもう一つ、別の問題も見つかっていた。レントゲンに肺の下部を占めるように丸い影が写っていたのだ。それは「腫瘍だと考えて、まず間違いなさそう」という話だった。本来なら「元気なうちに片方の肺を切除したほうがいいのだけれど」と獣医さんは言ったが、それを強く勧めるつもりはないようだった。

 昨日の様子で十分すぎるショックを受けていた僕としても、これ以上の手術は考えられなかった。それと、変な言い方になるけれど、いくら腫瘍といえども、それはもはやミー太の四つ目の不治の病に過ぎなかった。ミー太に残された命にとっては、生き延びる日数ではなく、幸せに暮らせる日数が大切だと、僕は考えた。

 手術から二日後にミー太は退院することになった。入院日数は合計六日。迎えに行ったとき、ミー太はよそよそしく、病院暮らしを気に入り始めているようにすら見えた。肺炎は治りきっていないものの、小康状態を保っていて、引き続き抗生物質の投与が必要だということだった。家に着いてキャリー・バックから出すと、ミー太は初めておしっこを漏らしていた。電車での一時間はさすがに長いのである。

 胃ろうチューブを介しての食事は難なく行うことができ、ミー太も嫌がることはなかった。見た目は悲惨でも、これはいわば人工のへその緒である、と僕は考えるようにした。

 そうして栄養は取れるようになったものの、ミー太は衰弱し続けていった。退院した四日後に傷口を見せに病院へ行ったら、白血球の数値が跳ね上がっていた。抗生物質の投与を続けたが、それからさらに二週間が経っても白血球の数値は高いままで、腎臓の数値も急激に悪化した。

 毎日五、六回は吐出した。トイレに入ることはできても、用が済むとそのまま砂の上にうずくまってしまった。体重も減り続け、ついに三キロを下回った。自力で水を飲むこともなくなり、料理のにおいに反応することもなくなった。後ろ脚を引き摺って歩くようになり、ほぼ寝たきりで一日を過ごした。脱水症状が見られるということで、皮下補液の仕方を教わって自宅で水分を強制補給することになった。

 十月も終わりにさしかかったある日の昼過ぎに、ミー太は吐出した。それに慣れっこになっていた僕は、さして慌てることもなく、ティッシュペーパーに手を伸ばした。その間に、ミー太はもう一度吐こうとした。口からは何も出てこなかった。そして、突然のたうち回り始めたのだ。

 喉に唾液が詰まったのだと思って、僕はミー太の口を開けて唾液を掻き出そうとした。その口の中にある舌がだらりと伸びて、尻尾が大きく膨らみ、ミー太は目をむいて、その体は完全に弛緩し、失禁した。

 温かい猫の死体が手の中にある、と感じた。蘇生を諦めるべきかと、一瞬だけ思った。僕の死生観では、自分が一度死んだらそれでお終いにしたいからである。しかし、僕の体は勝手に動いた。ミー太の鼻から息を吹き入れ、混乱して、口からも息を吹き入れた。シリンジに水を入れてきて無理やり喉の奥に流し、逆さにして猫を振った。

 医学的な知識のない人間は無惨である。しかし、そうしているうちにお腹がごぼごぼ鳴って、ミー太はゼッ…ゼ、ゼッ…と弱々しく苦しい呼吸を始めた。ミー太を脇に抱いたまま、僕はかかりつけの病院に電話をして指示を仰ごうとした。ところが頼りの獣医さんは出張で不在だった。応対してくれた別の獣医さんはどこか近所の病院へ行くことを勧めた。僕はなぜそれができないかを説明する余裕もなく、力なく受話器を置いた。振り返ってミー太を見ると、呼吸が穏やかになってきていた。汚れた体を拭いて、唾液と吐瀉物とおしっこでびしょ濡れのブランケットを替えた。

 ミー太は死ななかった。しかし、彼は死後の世界を見たのではないか。(僕は、死後の世界を信じない) 僕は、猫の唾液まみれになった口をすすぎに洗面所へ向かった。

 翌日、ミー太は呼吸が荒くなったり、また落ち着いたりを繰り返した。苦しくなると、台所の椅子の下に隠れた。そのとき僕は仕事で手が離せなく、かといって猫から目を離すわけにもいかないので、仕事部屋に台所の椅子を持ち込んで、僕がそれに座り、猫をより広い座面の仕事用の椅子に寝かそうとした。しかし、ミー太は嫌がった。

 彼を抱き上げて膝の上に座らせてみた。するとミー太は安心したように身をまかせ、眠り始めた。これまで何度、こうしてミー太を膝に乗せて仕事をしただろう。妻にミー太が爆睡しているとメールをした。

 夜になると、ミー太の呼吸はまた荒くなった。完全に口だけで呼吸をしている。ミー太は体を横たえ、苦しさが増すといたたまれないように身を起こした。僕と妻は彼の横に寝そべって、背中をさすり続けた。妻と交代で食事をとり、猫をベッドに入れて二人の間に寝かせた。そのときのミー太の呼吸音は、目を閉じて聞くと、幼い子供の寝息を耳元で聞いているようだった。僕は夢うつつだったが、ミー太が苦しくなって立ち上がりかけると、半身を起こしてなだめ「大丈夫、ここにいれば安全だから」と言って聞かせた。

 やがてミー太は、もう僕の声など聞こえていないようになった。身を起こそうと激しくもがき、前脚で宙を掻いた。僕と妻は代わる代わる声をかけたが、彼は自分の苦しみに心を奪われていた。妻が「ミーちゃん、おしっこしてる」と言った。ミー太は僕の手の中で、昨日の悪夢を再現した。その目はもう何も見ていなかった。

 ミー太は、ほとんど粗相をしなかった。トイレからお尻が出ていてケージを濡らしたことはあっても、必ずトイレで用を足した。衰弱して、歩くのがやっとでも、トイレには力を振り絞って向かった。

 ミー太は亡くなる前日の朝に、五、六日ぶりかのうんちをした。彼はそれを自力で出し切ることができず、僕が引っ張り出した。立派な、長いうんちに、僕は笑い、ミー太は機嫌をそこねた。ミー太が本当の意味で失禁したのは、死に際の二回だけである。

 

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 拾う一年ほど前から、ミー太とは顔見知りだった。僕が他の猫をねらい、しゃがんでカメラを構えている横に忍び寄って、いきなり膝に飛び乗ってきた。それがミー太との出会いだった。餌をあげないにもかかわらず、ミー太はいつも挨拶してきた。しっぽをピンと立てて足元に来て、横腹をこすりつけながら歩くのだ。

 出会った時から、見栄えのいい猫ではなかった。毛並みは悪く、背は湾曲していた。しかし半年くらい過ぎたころ、明らかな異常が目につくようになった。口から舌が出てもどらなくなり、よだれを垂れ流して、下顎がぐっしょり濡れるようになっていた。目はほとんど開かないようだった。それでも僕が立ち寄ると、ミー太はいつものようにひと通り甘えて見せ、僕は濡れた顎をティッシュでふいてあげた。

 冬にさしかかると、ついにミー太は僕を見ても寄って来なくなった。しんどそうに体を丸めてじっとうずくまっているのである。いわゆる猫の香箱座りではなく、おなかが地面につかないよう、四肢を中央に寄せてからその上に体を乗せる座り方だ。その座り方のせいで、彼の後ろ脚の裏は禿げていた。

 立ち寄って、声だけかけて、ミー太を残して立ち去る日々が続いた。僕には帰る家があって、ミー太にはない。二十代の半ばのころ、路上で死んでいる猫を拾い上げて、公園の隅に埋めたことがある。その腐臭が、記憶によみがえった。思えばその日も、冬だった。

 僕はずっと天気予報を気にかけていた。天がミー太を見放さないように祈っていた。そして、最後通牒があった。「夜には冷たい雨か雪が降るでしょう」

 真冬の夜空の下、風除けもない場所で、ミー太は横向きになってぐったり寝そべっていた。食べた形跡のない生餌が、ビニールの上に置かれたままだった。自分のすぐ頭の横に排便していた。誰かが見かねたのか、体の下には小さな毛布が敷いてあった。毛布の下には、一個の使い捨てカイロがあった。それはすでに冷え切っていた。まるで、彼への愛情のリミットを示すように。僕は、段ボールをもらうためにスーパーに入っていった。

 

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 いつも、撮影を終えて帰宅すると、ミー太は仕事部屋の椅子の上に立ち、放っておかれたことを抗議する。撮ったばかりの写真を編集するためにパソコンを立ち上げ、よその野良猫たちの写真を映し出すと、ミー太は僕の膝の上から机の上にすばやく移動して、ディスプレイを横腹で隠してしまう。やきもちを焼いているのである。膝の上に戻すと、小さく鳴いてまた抗議し、それからしばらくしっぽをばたばた振って怒っている。放っておくと、そのままうとうとし始めて、やがて眠ってしまう。おやすみ、ミー太。