【コラム】完全平等主義

 

1. 人には生まれながらにして優劣がある。

2. 人の優劣は自然によって作られたものである。

3. 優劣に基づく上下の構造を作ろうとするのは、人の自然な本性である。

 

どうです? とてもシンプルな考え方ではありませんか。

差別主義が人の心に立ち上がるのは、こういった単純明快な思考のなかに自分の属性を当てはめて、有利になる場合です。

たとえば、手首に謎のムダ毛が1本だけ長く生える人は優れている、とある社会が考えるとします。すると、それに当てはまる集団は、他人の手首を見てはムダ毛があるかどうかを確かめるようになる。他人の手首にムダ毛がないのを見ると優越感に浸り、そんな人たちは生きる価値がない、と主張するようにもなる。そうすることは、自らの生存にいかにも役立ちそうですね。

しかし、どうしてムダ毛なんかが優劣の根拠になるんだろう、と差別された人たちは訳が分からない。そして、このままではたまらないと、自らのアイデンティティを放棄して手首に植毛する人も出てくる。一方で、差別側に属する人の中にも、こんなものが生えるからといって得意になっていていいのか、と考える人たちが出てくる。自分はそもそも優れていないし、このムダ毛は自分の努力で獲得したものでもない、だからこれを抜いてしまおう、と思いつく人も出てくる。

せっかくシンプルな解があるのに、人の行動はシンプルには収まらない。人は気まぐれで、多様だ。とすると、このシンプルさには罠があるのではないか。実態にそぐわないものを、いかにも実態のように言い聞かせているだけではないか。

ところで、人の脳というのは、古い脳を取り壊して新しい脳を作ってきたのではなく、古い脳に新しい脳を「増築」することで進化してきました。人の多様性に沿うべく、先の言葉にも新しい言葉を追加してみましょう。

 

1. 人には生まれながらにして優劣がある(ように見える)。

2. 人の優劣は自然によって作られたものである(ように見える)。

3. 優劣に基づく上下の構造を作ろうとするのは、人の自然な本性である(らしい)。

4. だから人はこの本性に逆らわなければならない、平等を実現するために。

 

儒教の考え方

 

すべての人間関係には上下関係があって、それで社会は秩序を保てる。そのような考えを系統立てたものに、儒教があります。日本人の思考に多大な影響を与えているこの儒教が「上下」についてどう書いているか、抜粋してみましょう。

五常から

「仁」上から下への思いやりを指します。
「義」下が上のためになすべきことをしろと言います。
「礼」上への礼儀をわきまえろと説きます。

五倫から

「父子」親が上、子は下ということです。
「夫婦」夫が上、妻は下ということです。
「君臣」君主が上、家来は下という意味です。
「長幼」年長が上、年少は下とされます。

驚くべきことに、儒教とはその多くが「上」か「下」かという二階層式の思想によるものです。ちなみに、儒教の影響下で作られた教育勅語は、国家(天皇)が上、民は下、としています。

なんでもかんでも「上下」をつけた孔子のアイデアよりも、なんでもかんでも「i」をつけたスティーブ・ジョブズの方が僕には魅力的に見えます。「上下」がつくと「私」は消えてしまいますが、「i」はそもそも「私」という意味ですから。


自分の中の他者

 

もしも親が子よりも「上」なら、親の親はもっと上、そのさらに親はさらに上、そのまた親は、と祖先をどんどんさかのぼっていくと、上の、上の、上、といずれは上過ぎて「訳の分からないもの」に到達する。この思考実験が、古今東西の「神」の起源ではないかと、僕は考えています。

物語としては面白いけれど、理性が突っ込みたがります。

理性は聞きかじった遺伝子学を持ち出してこんなふうに言います。「実際、神とやらが登場するあたりで、きみの祖先は神ではなく小型の哺乳類になるだろうね。もう少し遡れば魚になって、やがてミジンコのようなものになって、どんどん小さくなって、最終的には無になるのさ」

理性とは何か。

それは、「自分の中の他者」の力を借りて、現実を客観的に言語化する力のことです。

なぜ、自分のなかに他者がいるのか。

それは、人生では他者と関わるからで、本を読んだり、映画を観たりする人生の擬似体験もまた、自分のなかに他者を育てるからです。

他者だから、彼は自分に都合のいいことばかりを言ってくれない。理性は僕にこう告げる「もう手首の謎のムダ毛を眺めるのはやめなさい。それはきみの優劣とは何の関係もない」


完全平等主義


そもそも、ある属性を「優劣」の証拠と決めつける態度は、その属性が「優」であることを確定すると同時に「劣」であることを確定するものです。

「大きい」ことは大きい方が役立つ時には「優」ですが、小さい方が役立つ時には「劣」です。

優劣とは、単なる物差しの違いによるのです。そして、誰もが生まれながらにして、自分に都合のいい物差しを持っている。もしも、他者の物差しを取り上げることを社会が許すのなら、それは社会がいつでもあなた自身の物差しを取り上げる権利を持っている、ということを意味するのです。

つまり、差別主義はいずれ自分を被差別者に追い込む自縄自縛の思考だと言えるわけです。

この愚かさから脱却するためには「平等」の思考がどうしても必要になります。

人類の最も偉大な発明のひとつに「平等」があるのは間違いないでしょう。平等とは、あなたがどういう状態で生まれてきたとしても、あるいはあなたが生きる中でどういう状態に陥ったとしても、あなたを人として認める、という思想です。

ところで私たちの社会は、この優れた発明である平等に異議を唱えない一方で、平等の例外をすぐに作ってしまう。孔子の残滓がそこここに現れている。

平等は分かった。しかしそれは成人した人どうしの話だ、というわけです。人によっては、それは男どうしの話だ、と言ったり、納税した人どうしの話だ、と言ったりするでしょう。

しかし、僕はここで「平等なめんなよ」と言いたい。

平等が生まれながらにして欲するところは、そんな限定的なものではない、というのが僕の考えです。家庭で言えば、親と子は完全に平等です。学校で言えば、教師と生徒は完全に平等です。職場で言えば、上司と部下は完全に平等です。もちろん、為政者と市民も完全に平等となります。

それぞれの属性に応じての「役割」はあります。組織では「リーダー」も必要でしょう。しかし、それらは真の平等を実現するためにあるのです。

力の強い人が力の弱い人に荷を背負わせるのが差別主義であるのに対して、力の強い人が力の弱い人の荷を背負うのが平等主義です。この観点に立てば、平等に例外を設ける必要などないのです。

ここに、自分ではまだ何もできない1人の赤ん坊がいるとします。その隣に1人の「立派な」大人がいるとします。この2人を完全に人として「対等」だと考えること。その上で、大人には「平等を実現するための義務」が発生している、と考えることが必要なのです。

このような思想を指して、僕は「完全平等主義」と言うことにしました。その実践については、次回のコラムで書きます。