【コラム】完全平等主義、という考え

人は平等ではない──

表立ってではないにしろ、私たちは人生のあらゆる場面でそう教え込まれています。生まれついて容姿に恵まれていたり、非凡な才能があったりする人の存在は、あたかも自然が不平等を容認しているかのように見えます。そのうえ社会は、生まれや所有財産の多寡によって、一方の生存に有利にし、他方を不利にするということを平気で行います。立場や階層は、本来ただの役割に過ぎないのですが、それらは上下関係としてみなされます。

たとえば、子供に対して親や教師の多くは「上」から「下」に向けてというふうに叱責をします。会社では、多くの上司が部下に対してそうします。しかし、どうしてこのような「上下」が成り立つのでしょうか。おそらく、上下の構造を支えるのは、人の理性ではありません。その根底には、ささやかな「脅し」があるのです。脅しを下敷きにすることによって社会が成立する、というのは人の自然な姿なのでしょうか。

ところで、すべての人間関係には上下関係があって、それで社会は秩序を保てる。そのような教えを、極端に系統立てたものに儒教があります。儒教の教義がどういうものかをかいつまんで説明しておきましょう。

「仁」上から下への思いやりを指します。
「義」下が上のためになすべきことをするということです。
「礼」上への礼儀をわきまえろと説きます。
「父子」親が上、子は下ということです。
「夫婦」夫が上、妻は下ということです。
「君臣」君主が上、家来は下という意味です。
「長幼」年長が上、年少は下とされます。

驚くべきことに、儒教とはその多くが「上」か「下」かという二階層式の思想によるものなのです。儒教は日本にもとても大きな影響を与えてきました。儒教の影響を受けた教育勅語も、国家(天皇)が上、民は下、としています。これらは、人を服従させる教育としてはとても優れている。支配するツールとしては。

そこに、僕は疑念を感じる。

人は平等ではない、というのは生来の人間にそなわっている自然発生的な感情ではなく、ただの刷り込みの結果なのではないか。私たちにはそれぞれ特性や属性があるけれど、それはどれも上下というよりはむしろ「同じ地平」に置かれている。それが、正確な見方ではないかと思うのです。これは、絶対的に平等だった少年時代の友達との経験が、僕に語るものでもあります。

私たちの思い込んでいる人の優劣・上下とは流動的なものです。容姿や才能は年齢とともに衰える。力について言えば、物理的な意味でも抽象的な意味でも、力の強い人が力を失い力の弱かった人が力を持つことは日常茶飯事です。国家の王も、職場や学校や家庭におけるミニ王も、いずれその立場を失います。親が子よりも「上」なら、祖先をどんどんさかのぼっていくと、上の上の上、といずれは上過ぎて神に到達してしまいそうですが、遺伝学的には、小型の哺乳類になり、魚になり、ミジンコのようなものになり、最終的には無になります。少なくとも僕は、神話よりも科学を信じているのでそう考えます。

人は平等ではない、と説く人のいう「現実」とはただのトリックなのです。トリックは言語にも及んでいます。そのひとつが、敬語です。敬語は上下関係を強化するための仕掛けで、コミュニケーションのためのものではありません。もしあなたが敬語を優れたコミュニケーションの形式だと思うのなら、赤ん坊ともその形式で対話するべきでしょう。しかし実際には、幼児語で話しかけたりするわけです(僕は、大人が幼稚語で自分に話してくるのがとても嫌いな保育園児だった)。相手によって言葉を変えるのがトリックの始まりです。

僕は、簡潔で分かりやすく普遍性のある平易な言葉で、すべての人に語るべきだと考えます(英語ですら格式を印象づける文語調な単語が出版界で使われることがあって、そのたびにがっかりする)。そうすれば、息苦しい現実は、上下というトリックを排した平板な世界へと変わるはずです。このような志向と態度を指して、僕は次のように言うことにしました。

完全平等主義。

これが、僕の思想です。赤ん坊も青年も老人も、男性も女性も特別な性も、親も子も、教師も生徒も、もちろん為政者も市民も、みな等しい。みな同じ地平にいるのです。赤ん坊も「1人」の人で、どんなに立派で賢明な大人とも対等なのです。それが、完全平等主義の考え方です。日本語には「半人前」という嫌味な言葉がありますが、これはそもそも数量的に存在しえない表現です。人は、いるか、いないか、いるのなら1人から数えられるものです。半匹前のアライグマがいないのと同じです。

世界には、人を上下で区分する仮想の足場はない。そういったものは物理的に存在しない。一方で、この世界に生きる私たちには様々な違いはあっても、ただひとつ絶対に共通しているものがある。それは「命」です。命は、相対的でないただ一つのものです。なにせ、ひとりひとつしか持つことができません。命には上下がないから、医者は患者を(誰であるか伏せられれば、あるいは純粋にヒポクラテスに誓ったのであれば)同じように治療するのです。

僕は子供の頃から、なぜ社交の場では主君と奴隷を模した気味の悪いゲームを大人たちが始めるのか、本当に理解できなかった。上座・下座などの慣わしを心から馬鹿らしく思った。席なんか早く来た人からどこでも好きなところに座ればいいじゃん、と。

世界はこれまで「違い」を「上下」と見せかけるトリックに腐心してきました。上下が強化させると、おのずと命は軽視されます。戦争、侵略、搾取、富の占有、人種差別、児童虐待、DV(身内への暴力)、セクハラ、パワハラ。すべては、上下のトリックに欺かれた人々の行いです。そしてこれらは残念なことに、いずれも現在進行形の事象です。

トリックの時代。いわば、マジシャンが箱に入った人をノコギリでまっ二つに切って見せて、まだ種明かしをしていない、緊張に満ちた時間の停滞。それが、古代から現代まで続いているわけです。インターネットは今のところ人の平等に寄与していないようです。むしろ人々はオンラインで、せめて「上」半身を確保しようと、生来もっている情を捨て、謀略をめぐらし、誰を「下」半身におとしめるか探し、平等に向かって毒づいている。

しかし、やがてマジシャンが種明かしをする日がくるのです。それは、トリックが自らのボロを隠せなくなるほど、世界が取り返しのつかないくらい深く傷ついたときかもしれません。協働しなければ誰も生きていけない、と人々が改めて知ったときには、トリックは雲散霧消するはずです。しかし、そんな未来を悠長に待たなければならないほど、人は愚かなのでしょうか。

小さなことから変えていけばいい、と僕は思います。

たとえば、今電車内であなたの隣に、たまたまどこかの小学生がいあわせて騒いでいる。あなたの足を踏んでもおかまいなしだ。そのときにあなたは怒鳴るだろうか。怒鳴るとすれば、あなたはトリックに惑わされているのです。(なんだよ、このガキは、目障りだな)と、僕もたぶんそう思います。それは、どこかで刷り込まれた誰かの言葉の「模倣」が反射神経として脳に想起させるものです。(でも、待てよ。この「人」も自分も等しくただの「人」だ。年齢が上だからといって、力が強いからといって、自分が「上」のはずがない)そう思えば、対処の仕方は変わるでしょう。その小学生には内省が必要かもしれないけれど、上下という刃で傷をつける必要はない。その傷(記憶)は、その子に上下というトリックを刷り込み、再生産するだけのものに違いない。人に何かを教えようとする言葉は、高圧ではなく、説得であるべきです。野性ではなく、理性であるべきなのです。

トリックに居場所がなくなったとき、人に、真に人間性と呼べるものが立ち上がるのではないか。そう僕は考えています。そしてトリックを暴くには、人はみな「完全に平等」であるという思想の光を当てさえすればいいのです。