【コラム】完全平等主義、という考え 〜実践編

完全平等主義の実践について話す前に「平等」という言葉に対するありがちな誤解について説明しておきたいと思います。平等とは、全員に一律の特典や負荷を与えることを意味しません。むしろ特典や負荷の分量を「不平等に調整」するところに、本当の意味においての平等があるのです。

たとえば、遠くの木にとまっている鳥をみんなで見るとしましょう。もっとも目のいい人は裸眼で鳥を見ることができるとします。しかし視力の弱い人がその人と同じように鳥を見るには、メガネが必要になります。また、背の低い人は、目がよくても人だかりにさえぎられて鳥を見ることができないかもしれません。そのときには、誰かに持ち上げてもらったり、台に乗ったりする必要があります。平等な社会とは、メガネや台を用意する社会のことです。それぞれの人に必要な特典や負荷を与えることを平等というのです。

負荷の平等の考え方においては、もしもあなたが「人よりも力が強いのなら人よりも重い荷を持て」ということになります。ノブレス・オブリージュというフランス語にはこのような意味が含まれています。成功者には義務が発生する、と説くのです。勝者総取りの考え方を、倫理に反するものとして切り捨てるわけです。ノブレス・オブリージュをさらに推し進めるとどうなるか。完全平等主義がどのような社会を作るのか、いくつか例を挙げてみようと思います。

【選挙権】
完全平等主義を社会基盤に据えると、選挙権はある特定の年齢を区切りに与えられるものではなくなります。幼い子供でも「投票行為が可能になった日から」投票できるようになるのです。多くの人は実際、小学校高学年くらいから投票可能でしょう。とんでもない提案に思えるかもしれませんが、世界には9歳で大学を卒業してしまう子供もいます。

それなら、と政治家や官僚はすぐに「審査」を持ち出すかもしれませんが、投票能力の審査などは行いません。生活保護などの給付状況を見ても分かりますが、公権力による審査は「上下」関係を否応なく作り出すものです。

原則として、子供にも政治に参加する権利がある、とするのが完全平等主義の考え方です。早熟な子供なら、幼稚園児でも投票できるようになります。「選挙権は生まれると同時に発生する」とする規定するのです。それを行使するかどうかは、投票手続きを行えるかどうかのみによります。投票先に関して、親や親族・所属団体など他者の関与がない、と誓約する必要はあるかもしれません。その誓約はしかし、大人であっても必要なものでしょう。

自分自身を振り返れば、僕は愚鈍な子供だったけれど、小学校3年生くらいで投票できたと思う。そのころ家に、なぜだか政党名入りの爪切りがありました。当時は公職選挙法の存在も知らなかったけれど、こういうことをする政治家はずるいやつだ、と思いました。ずるいやつが「えらく」なっていばるのだ、と。そのとき僕に選挙権があれば、その政党の党員以外に投票したはずです。

その後、景品を配る以外にも、現金を配ったり、商売上のアドバンテージを約束したり、神や仏の加護を約束したり、とさまざまなものを引き換えに政治家が生まれるのを、大人になって知りました。その出発点が「ずるい」のですから、政治が善であるはずはないのです。そして「ずるい」を見抜くのは、大人よりもむしろ子供のほうが長けている。

選挙権がないことで、子供たちは大人たちのやっている政治について「あきらめ感」をいだくようになります。それを、大人になっても引きずる人はとても多い。それは、投票率を見れば一目瞭然です。「えらい」人たちのやりたいようになるのが世の中だ、と考えるわけです。これを変えるには、子供のころから選挙に関わるようにすればいい、と僕は考えます。

【校則】
完全平等主義の行き渡った社会においては、学校で定められた校則は、教師も守らなければなりません。仮に合理的な理由があるとして、生徒に坊主頭を強要するのなら、教師も坊主でなければならない。染髪を禁止するなら、教師の白髪染めも禁止。奇抜な髪型を禁止とするのなら、男性教師のバーコード型七三分けなども禁止です。制服を義務とするなら、教師も制服を着用しなければならない。そうして初めて、校則というものの意味が明確になるのではないでしょうか。人が学ぶために最低限必要なことは何かが。

完全平等主義は根拠のない「大人特権」を認めません。ただ子供を支配するためのサディスティックな校則は、社会から一掃されるでしょう。教師によるハラスメントも、教師と生徒を平等だと考えることで存在しえなくなります。

もしも自治体が生徒(子供)に娯楽を制限するのなら、教師(大人)もまた制限されることになります。仮に科学的な根拠があるとして、子供のゲーム時間を1日1時間までと制限するのなら、大人の趣味によるネット閲覧やテレビ視聴も1日1時間までと制限されなければなりません。子供に禁じられて大人に許可されるのは、アルコールやニコチンの摂取くらいです(R指定の開放については思案中)。平等の考え方においては、身体的な負荷の高いこれらの依存物質は、成長途上の子供に与えないことが適切で、これら薬物の規制は平等を守る行為だと考えます。

【労働環境】
女性には生理休日や出産休暇が与えられ、なおかつ減収や業務上の不利にならないようにすることが、社会の義務になります。先にも書いた通り、そもそも平等とは、みなに等しく負荷を与えることではないのです。弱者は負荷を少なくされなければなりません。

また、持病などがあり、正規の労働時間をこなせない人には、その人の体力に見合った労働時間を医師の助言に沿う形で「個別基本労働時間」とします。女性もそうですが、この場合も、健康な人より1時間や2時間少なく働いても、同等の収入を保証されるということになります。

そして雇用者は、就職希望者のこなせる労働時間を根拠に採用の可否や、業務の割り振りを行うことはできません。個別基本労働日数・個別基本労働時間の導入実績のない会社には罰則が適用されるようになります。

ところで話はそれますが、電車の女性専用車両について「男性差別」だという主張があります。これは平等の考え方を間違えているか、意図的に無視している考えだというのが、ここまで読んだ人なら分かるでしょう。この件について、僕のかつての同僚に「女を甘やかし過ぎだ」と吐き捨てた人がいて驚いたことがあります。この言葉は、平等を間違えているのと同時に、女性の行動を規定するのは男性だという信念を表しています。

他人を自由にできる、とするところから不平等主義、すなわち現代の社会構造は生まれました。格差社会の進んでいる先進国はどこもそうです。完全平等主義はこれに対峙するものなのです。

【家庭内】
家庭内での「しつけ」であっても暴力は絶対に許されなくなります。親が子をたたくところから世界は歪み始める、というのが僕の持論です。おしりぺんぺんもアウトです。子が親からたたかれて学ぶのは「人をたたいてもいい」ということだけです。たたかれた子供は、人からたたかれないような、あるいはそれに先んじて人をたたくような、卑怯な処世訓を身につけるだけです。

僕自身、大人になる過程において、そのようなやり口で周囲を傷つけたことがあります。僕は素行不良な子供(クソガキ)でした。なぜそうだったのか、大人になって気づきました。僕の生まれ育った家庭は、いわゆる機能不全家族だったのです。小学校に上がってすぐの頃、教師にたたかれて泣いている同級生を見て笑いました。そんなことは自宅で日常茶飯事だったからです。暴力にさらされている子供は、暴力に不感になるのです。

機能不全な家庭で育った子供は、よほど何か内省の機会に恵まれない限り、機能不全をウイルスのように世間に持ち込みます。家庭内のしつけであっても、その手段が自由ではない理由がここにあります。子供が外部社会と接触する以上、家庭内での出来事であっても社会とは無関係ではないのです。

「しつけ暴力」から子供を守り、子供と大人の平等を確立するために、社会は「子が親を簡便に訴えられるシステム」をつくる必要があるかもしれません。完全平等主義は、多くの大人にとって都合の悪いシステムになるでしょう。それは、平等が大人にとって不都合な現代の姿をあぶり出すからです。

ところで、家庭の影響などによらず、自分という「鋳型」を、人は生来持っていると考える人がいるかもしれません。しかし、それは天性というものを過大評価し過ぎているのです。ここで、唐突ですが、ドッグ・トレーナーについて取り上げてみましょうか。わがまま放題だった犬がドッグ・トレーナーの指導によって従順で賢い犬へと変貌するのを、動物好きな人なら知っているでしょう。トレーナーはいわば犬に「新しい鋳型」を与えるのです。そしてその手段に暴力が使われることはありません。アメ(褒美)とムチ(罰)ではなく、おやつ(褒美)とほめる(褒美)なのです。どうしてそれが言語を理解できる人に応用できないのでしょうか。

人の鋳型とは、育った環境によって大部分をかたどられるのです。僕がこのことを理解できたのは、20代の後半に作家を志してたくさんの文学作品を読んだことがひとつには挙げられるでしょう。それはいわば、多様な他者の人生をなぞるという思考訓練の反復です。それと、何と言っても「親にたたかれたことがない」という妻に出会ったことが大きい。

親にたたかれたことがない人には、人をたたく、という発想がありません。その選択肢は存在しないのです。妻の善良さと性根の悪い自分を釣り合わせるにはどうあるべきか、を考えることで、僕は感性や衝動をあてにして粗暴さや無教養を良しとする、自分自身の古い鋳型から少しずつ抜け出ることができたのです。今は(たぶん)8割がた抜け出たと思いますが、それには実に25年もかかりました。そして抜け出てみると、その古い鋳型はとても小さく・窮屈なものだったと分かったのです。

妻は現在保育士をしているのですが、どこからどう見ても「こわい」ところのない人です。人を威圧しようとしたり、強がったり、悪ぶったりするところがまるでないのです。あるとき彼女と一緒にマクドナルドに行って、彼女の担当の園児と出くわしたとき、その子は「あ、先生! やっほー」と彼女に挨拶しました。これを、子供になめられている、と顔をしかめる大人もいるでしょう。けれどこれは、間違いなく、僕がかつて聞いたなかでも最高の挨拶のひとつです。

【競争主義】
平等、というと例えば、テストを採点しないとか、徒競走でみんな同時にゴールする、というような事例を浮かべる人がいるかもしれません。しかし、完全平等主義は競争社会を否定するものではありません。むしろ、競争を奨励するのです。

学問や芸術、スポーツにおける技能レベルや、商売におけるサービス・製品の品質の競争は、むしろ積極的に維持されなければなりません。世界からこういった「ゲーム性」がなくなることは個性の否定につながり、個性の否定は不平等を招くからです。

ただし、競争の勝者が「上」を意味するわけではない、と私たちは認識する必要があります。勝った人が何をしてもいい権利を手に入れるわけではない。「勝ち」と「上」は区別して考えるべきなのです。「上」を象徴する表彰台はもはや不要です。競技の参加者はみな同じ地平に立って、それぞれの成績に応じた「ささやかな報酬」を受け取ればいい。そもそも「勝つ」というのは、それだけで十分な「報酬」なのです。

そして、勝者の利益が過剰なときには、敗者の救済へと還元されるべきです。そうすれば、私たちはゲームを続けられる。完全平等主義は競争を促しつつも、それが生活格差にまで及ぶことは否定します。プライベート・ビーチ付きの豪邸に住む人と、公道の路上で段ボールにくるまれて眠る人が同時に存在する世界は、完全な不平等社会です。このような世界は、ある意味「殺し合い」の世界とも言えるでしょう。そして、それが現代の姿なのです。これに対して完全平等主義は、すべての人がお互いに違いを認めつつも、より良く「生きる」ことを保障し合う、未来に向けた考え方なのです。

 

※特に惹かれた作家は、大江健三郎、宮沢賢治、カフカ、サリンジャー、ドストエフスキー、マルケス、ユゴー。(少年期には星新一の熱烈なファンで文庫は全て持っていた)