【コラム】完全平等主義 〜実践編


完全平等主義の実践について話す前に、「平等」という言葉に対するありがちな誤解について、もう一度説明しておきたいと思います。

平等とは、全員に一律の負荷を与えることを意味しません。むしろ負荷の分量を「不平等に調整」するところに、本当の意味においての平等があるのです。

たとえば、遠くの木にとまっている鳥をみんなで見るとしましょう。目のいい人は裸眼で鳥を見ることができるとします。しかし視力の弱い人がその人と同じように鳥を見るには、メガネが必要になります。また、背の低い人は、目がよくても人だかりにさえぎられて鳥を見ることができないかもしれません。そのときには、誰かに持ち上げてもらったり、台に乗ったりする必要があります。

平等な社会とは、メガネや台を用意する社会のことです。背が高く、視力のいい人は、そうでない人のために何ができるかを考え、実行するのが完全平等主義の考え方です。

それでは、実際の生活における様々な場面で完全平等主義が実現するとどうなるのか、説明しましょう。


【選挙権】


選挙権はある特定の年齢を区切りに与えられるものではなくなります。

幼い子供でも「投票行為が可能になった日から」投票できるようになるのです。

多くの人は実際、小学校高学年くらいから投票可能でしょう。とんでもない提案に思えますか? しかし、世界には9歳で大学を卒業してしまう子供もいます。

原則として、子供にも大人と同じように政治に参加する権利がある、とするのが完全平等主義の考え方です。選挙権は生まれると同時に発生する、と規定するのです。

それを行使するかどうかは、投票手続きを行えるかどうかのみによります。筆記やそれに等しい行為ができさえすればいいのです。

自分自身を振り返ってみれば、僕はずいぶん愚鈍な子供だったけれど、小学校3年生くらいで投票できたと思う。

そのころ家に、なぜだか政党名入りの爪切りがありました。公職選挙法すら知らなかったけれど、こういうことをする政治家はずるいやつだな、と思いました。ずるいやつが「えらく」なっていばるんだ、と。そのとき僕に選挙権があれば、その政党の党員以外に投票したでしょう。

景品を配る以外にも、現金を配ったり、商売上のアドバンテージを約束したり、神や仏の加護を約束したり、と様々なものを引き換えに政治家が生まれるのを、大人になって知りました。その出発点が「ずるい」のですから、政治が善であるはずはないのです。そして「ずるい」を見抜くのは、大人よりもむしろ子供のほうが長けている。

選挙権がないと、子供たちは大人たちのやっている政治について「あきらめ感」を刷り込まれます。

それを、大人になっても引きずる人はとても多い。

これは、投票率を見れば一目瞭然ではありませんか。投票しない人たちは「えらい」人たちのやりたいようになるのが世の中だ、と考えるわけです。これを変えるには、子供のころから選挙に関わるようにすればいい、と僕は考えます。


【校則】


学校で定められた校則は、教師も守らなければなりません。

仮に合理的な理由があるとして、生徒に坊主頭を強要するのなら、教師も坊主でなければならない。染髪を禁止するなら、教師の白髪染めも禁止。奇抜な髪型を禁止とするのなら、男性教師のバーコード型七三分けなども禁止です。バーコード型七三分けにするくらいなら、それこそ清々しく坊主にすればよろしい。

制服を義務とするなら、教師も制服を着用しなければならない。そうして初めて、校則というものの意味が明確になるのではないでしょうか。人が学ぶために最低限必要なことは何かが。

完全平等主義は根拠のない「大人特権」を認めません。

ただ子供を支配するためのサディスティックな校則は、社会から一掃されるでしょう。教師によるハラスメントも、教師と生徒を平等だと考えることで存在しえなくなります。

もしも自治体が生徒(子供)に娯楽を制限するのなら、教師(大人)もまた制限されることになります。仮に科学的な根拠があるとして、子供のゲーム時間を1日1時間までと制限するのなら、大人の趣味によるネット閲覧やテレビ視聴も同様に制限されなければなりません。

子供に禁じられて大人に許可されるのは、アルコールやニコチンの摂取くらいです。平等の考え方においては、身体的な負荷の高いこれらの依存物質は、成長途上の子供に与えないことが、むしろ平等を守る行為です。

R指定の開放についてはどうでしょう。これについて僕は(表現の自由との兼ね合いから)思案中ですが、開放されるのならば、大人だけしか入れない現在の世界のいびつを正すかもしれません。子供の監視下にあると知れば、大人の態度は変わらざるを得ないでしょう。


【労働環境】


女性には生理休日や出産・育児休暇が与えられ、なおかつ減収や査定上の不利にならないようにすることが、社会の義務になります。先にも書いた通り、そもそも平等とは、みなに等しく負荷を与えることではないのです。平等の観点から、女性は負荷を少なくされなければなりません。

また、持病などがあり、正規の労働時間をこなせない人には、医師の助言に沿った「個別基本労働時間」を設けます。この場合も、健康な人より1時間や2時間少なく働いても、同等の収入を保証されるということになります。

雇用者は、求職者のこなせる労働時間を根拠に採用の可否や、業務の割り振りを行うことはできません。個別基本労働日数・個別基本労働時間を導入しない会社には罰則が適用されるようになります。

ところで話はそれますが、電車の女性専用車両について「男性差別」だという主張があります。これは平等の考え方を間違えているか、意図的に無視している考えだというのが、ここまで読んだ人なら分かるでしょう。


【家庭内】


家庭内での「しつけ」であっても、暴力は絶対に許されなくなります。

「親が子をたたくと世界が歪む」というのが僕の持論です。

おしりぺんぺんもアウトです。

子が親からたたかれて学ぶのは「人をたたいてもいい」ということだけです。人をたたくというのは、原初的な差別の始まりなのです。先述の比喩を用いれば、背の高い人が背の低い人を踏みつけて、もっと遠くにいる鳥を見ようとするようなものです。

「しつけ暴力」から子供を守るのは、社会の第一の義務になります。そのような場合には子供を避難させる、というより、親を隔離するべきなのです。暴力親の更生なくして、社会の平等は実現しません。


【競争主義】


平等、というと例えば、テストを採点しないとか、徒競走でみんな同時にゴールする、というような事例を浮かべる人がいるかもしれません。

しかし、完全平等主義は競争社会を否定するものではありません。むしろ、競争を奨励するのです。

学問や芸術、スポーツにおける技能レベルや、商売におけるサービス・製品の品質の競争は、むしろ積極的に維持されなければなりません。世界からこういった「ゲーム性」がなくなることは個性の否定につながり、個性の否定は不平等を招くからです。

ただし、競争の勝者が「上」を意味するわけではない、と私たちは認識する必要があります。

勝った人が何をしてもいい権利を手に入れるわけではない。「勝ち」と「上」は区別して考えるべきなのです。上を象徴する表彰台は不要です。競技の入賞者はみな同じ地平に立って、それぞれの成績に応じたささやかな報酬を受け取ればいい。そもそも勝つというのは、それだけで十分な報酬ではありませんか。

そして、勝者の報酬が過剰なときには、敗者の救済へと還元されるべきです。そうすれば、私たちはゲームを続けられる。

完全平等主義は、競争を促しつつも、それが生活格差にまで及ぶことは否定します。

プライベート・ビーチ付きの豪邸に住む人と、公道の路上で段ボールにくるまれて眠る人が同時に存在する世界は、完全な不平等社会です。このような世界は、ある意味「殺し合い」の世界とも言えるでしょう。そして、それが現代の姿なのです。

これに対して完全平等主義は、すべての人がお互いに違いを認めつつも、より良く「生きる」ことを保障し合う、未来に向けた思考だと言えるでしょう。